ブラックホールは囁く、暗黒物質の歌を
四次元殺法と科学の入り口
ラボの窓を、しとしとと雨が叩いている。
静かな夜。観測機材の低いハミングだけが響く中、潮目はお気に入りのマグカップを両手で包み、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「ナギ君、僕がどうしてブラックホールに興味を持ったか知ってる?」
唐突な問いかけに、コンソールを操作していたナギが手を止める。
「大学での専門分野だったから、では?」
「それもそうなんだけどね。もっと原点は、子供の頃に夢中で読んだ超人プロレス漫画なんだ」
潮目は少し照れくさそうに笑った。
「超人...プロレス...漫画、ですか」
「そう!『ブラックホール』っていう、顔そのものが本当にブラックホールになっている超人がいたんだ。これがもう、最高にクールでさ!彼の必殺技を見て、本物のブラックホールって何だろうって調べ始めたのが、僕の科学の入り口だったんだよ」
ナギは小さくため息をついた。
「潮目さんの原動力が四次元殺法だったとは初耳です。ですが、ちょうどそのブラックホールに関する興味深い『ささやき』が届いていますよ」
そう言ってナギが差し出したタブレットの画面には、無数の数式とグラフが並んでいた。
宇宙からの囁き
「おお!これは重力波のデータじゃないか!」
潮目はマグカップを置き、興奮した様子で画面を覗き込む。
「ええ。LIGO-Virgo-KAGRAからの最新の観測報告です。注目すべきはこの一節です」
For GW190728 and GW190814, vacuum lies outside the 95% credible region. When including superradiance priors, GW190728 shows tentative evidence for a scalar environment with a Bayes factor of ln ℬenvvac≈3.5, consistent with a light scalar of mass ∼10−12 eV.
(GW190728とGW190814については、真空環境であるという仮説は95%信用区間の外側にあります。超放射(スーパーラディアンス)の事前確率を含めると、GW190728は、ベイズ因子がln ℬenvvac≈3.5のスカラー環境の暫定的な証拠を示し、これは質量が∼10−12 eVの軽いスカラー粒子と一致します。)
出典: Whispers from the Dark: Searching for Gravitational-Wave Signatures of Dark Matter in Black Hole Binaries : Physical Review Letters
「マジか!『真空であるという仮説は95%信用区間の外側』!?つまり、ブラックホールの周りは空っぽじゃなかったってことか!?」
「その可能性を、データが示唆しています。しかも、それは『軽いスカラー粒子』、つまり暗黒物質(ダークマター)の候補の一つと一致するかもしれない、と」
ナギは冷静に続ける。
「この論文の重要性について、研究者自身もこうコメントしています」
What we think is important to highlight is that without waveform models like ours, we could be detecting black hole mergers in dark matter environments, but systematically classifying them as having occurred in vacuum.
(我々が強調したい重要な点は、我々のような波形モデルがなければ、暗黒物質の環境で発生したブラックホールの合体を検出しながらも、それを真空で発生したと系統的に分類してしまう可能性があるということです。)
出典: Gravitational waves from colliding black holes could carry an imprint of dark matter : Phys.org
「つまり、今まで『無音』だと思って聞いていた重力波の中に、実は暗黒物質が奏でる微かな『ノイズ』が混じっていたかもしれないってことか!」
潮目の声が、静かなラボに響き渡った。
ダークマター・マップ計画
「これってさ、つまりブラックホールがあの超人みたいに、暗黒物質を吸い込んでるってことじゃない!?」
「『吸い込んでいる』というよりは、『まとっている』という表現が近いかもしれません」
ナギは潮目のSF的な飛躍を冷静に訂正する。
「論文の仮説によれば、ブラックホールの周囲に暗黒物質のスカラー場が存在することで、放出される重力波の波形にわずかな変調がかかる。それが『ささやき』の正体だと」
「ささやき……か。ロマンチックだなぁ!でも、そのささやきを正確に聞き分けることができたら、とんでもないことになるぞ!」
潮目の目が少年のように輝く。
「宇宙の8割以上を占めるはずなのに誰も見たことがない、暗黒物質の分布がわかるかもしれないんだ!」
「はい。重力波を新たな『目』として、暗黒物質の地図を描ける可能性がありますね」
「だよな!もしこの解析アルゴリズムをラボトロニカの観測ドローンに組み込めたらどうなる?銀河スケールの『ダークマター・マップ』をリアルタイムで生成するんだ!壮大じゃないか?」
「壮大ですが、まずはそのアルゴリズムを開発するための予算申請が必要です。ボスを説得できますか?」
ナギの現実的なツッコミに、潮目は「うっ」と一瞬言葉を詰まらせた。
生きているうちに、見れるかな
いつの間にか雨は上がり、雲の切れ間から星が瞬き始めていた。
潮目は窓の外に広がる夜空を見上げた。
「なあ、ナギ君。僕たちが生きているうちに、暗黒物質って本当に『観測』できるのかな」
静かな問いかけに、ナギは答えなかった。
「子供の頃に憧れた漫画の超人が、こんな壮大な宇宙の謎につながるなんて思ってもみなかったよ。重力波っていう新しい『耳』を手に入れて、宇宙の本当の音が少しだけ聞こえ始めたんだ」
それは独り言のようでもあった。
「潮目さん。今日のデータは、その『ささやき』が幻聴ではない可能性を示した、最初の報告に過ぎません。証明には、まだ遠い道のりです」
「わかってるさ。でも、これはゼロじゃない。大きな一歩だよ」
再び、静寂がラボを包み込む。
遠い宇宙から届く、まだ聞こえないはずのささやきに、二人は静かに耳を澄ませていた。
やがてナギが、ぽつりと呟いた。
「……観測できると、いいですね」
「観測できたら、僕らは四次元殺法コンビと名乗ろうか」
「お断りします」