【Wi-Fiで個人特定される技術の危険性とは?】|壁の向こうで踊る、見えない誰かのワルツ

壁の向こうのささやき
ラボの空気が奇妙に揺らいでいた。観測用のモニターに映るデータが、まるで心霊現象のように明滅を繰り返している。
潮目研究員は、そんな異常には目もくれず、はんだごてを片手に奇妙な自作アンテナをラボのWi-Fiルーターに向けていた。その姿は、何かの儀式を執り行う司祭のようでもある。
「潮目さん。またケーブル踏んでますよ」
背後から、温度のない声がした。助手のナギだ。
「うおっ! あ、ごめんごめん! いやはや、この実験が面白すぎてね!」
「その面白い実験のせいで、ラボ全体の通信が断続的にクラッシュしています。私のクラウド同期が5回失敗しました」
「あはは……」
ナギはため息一つでその場を制圧すると、自身の端末を操作してメインモニターに一つの波形データを映し出した。それは不規則ながらも、どこか見覚えのあるパターンを描いている。
「これは?」
「潮目さんの、ここ3分間の無駄な動きです。アンテナの角度を調整したり、はんだごてを落としそうになったり、ケーブルに躓いたり。そのすべてが、Wi-Fiの電波反射の変化として観測されています。丸裸ですよ」
そこにいる「誰か」を映す電波
潮目はモニターに映し出された自身のドジな動きの軌跡を見て、恥ずかしがるどころか、目を輝かせた。
「すごい! まさにこれだ! 僕が再現したかったのは! この論文の技術ですよね!」
ナギは静かに頷き、関連するデータをモニターに次々と表示していく。
「ええ。発端は、この論文ですね」
We show that we can infer the identity of individuals with very high accuracy, across different walking styles and perspectives, even with large sample sizes.
(我々は、歩き方や視点が異なり、サンプルサイズが大きい場合でも、非常に高い精度で個人の身元を推測できることを示す。)
出典: BFId: Identity Inference Attacks Utilizing Beamforming Feedback Information : CCS ’25: Proceedings of the 2025 ACM SIGSAC Conference on Computer and Communications Security (配信元: ACM Digital Library)
「歩き方の癖や身体の動きだけで、個人を特定できる……! カメラもマイクもなしに、ただWi-Fiの電波だけで! いやはや、とんでもない技術です!」
「そして、そのとんでもない技術がもたらす未来について、警鐘を鳴らす声もあります」
ナギが指し示したモニターには、別の記事が映し出されていた。
"This technology turns every router into a potential means for surveillance," warns Julian Todt from KASTEL.
(「この技術は、すべてのルーターを潜在的な監視手段に変えてしまう」とKASTELのJulian Todt氏は警告する。)
出典: Ordinary WiFi can now identify people with near perfect accuracy : Karlsruher Institut für Technologie (KIT) (配信元: ScienceDaily)
潮目の顔から興奮の色がすっと消え、代わりに好奇心と、少しばかりの畏怖が浮かんだ。
禁断の観測実験
「監視、か……」
潮目は呟き、ナギと顔を見合わせた。二人の脳裏に、同じ人物の姿が浮かんでいた。ラボの最高責任者にして、そのプライベートが謎のベールに包まれた絶世の美女、白波所長。
「ひょっとして、この技術を使えば……」
「ボスの、謎に満ちた生活を……」
ゴクリ。二人の喉が同時に鳴った。沈黙を破ったのは、ナギだった。
「……これは実験です。論文の再現性を検証する、純粋な科学的探求です。やましいことは、なにもありません」
その言葉は、悪魔の囁きのようだった。
「そ、そうですよね! 検証だ!」
潮目は決意を固めると、自作アンテナを所長室の分厚い壁に向けた。モニターを食い入るように見つめる。
数秒の静寂。やがて、モニターにノイズだけが流れ始めた。
「サー……ッ」
「……何も映らないな。もしかして、シャワー中でも浴びてるのかな?」
「その可能性は否定できません。ボスのバスタイム……データとして非常に興味深いですね」
目を血走らせ、モニターに映るノイズの一粒一粒まで見逃すまいとする二人。その背後に、冷たい影が音もなく忍び寄っていることにも気づかずに。
観測される者
「――私の白衣は、最新の防磁気・防帯電コーティング仕様だから、電波は透過しないわ」
凛とした、氷のような声が鼓膜を突き刺した。
潮目とナギが、まるでブリキの玩具のようにギギギと音を立てて振り返る。そこには、腕を組み、絶対零度の微笑を浮かべた白波所長が立っていた。
「しょ、所長っ!?」
「ちなみに、下着も同じ素材よ」
所長の言葉に、二人は完全に凍りついた。
「電波で人が丸裸になる恐怖。身をもって知ったなら、それで十分ね」
所長はそう言うと、ふっと表情を和らげた。その目は、まるで新しい玩具を見つけた子供のように、好奇心に輝いている。
「でも、とても興味深い実験だったわ。気に入った。――だからお返しに、今度は私があなたたちを観測してあげる」
所長が手元のスマートフォンを軽くタップすると、ラボのメインモニターが一瞬で切り替わった。 そこに映し出されたのは、潮目とナギの頭上にリアルタイムで表示される【心拍数・焦り度・汗の分泌量】の推定グラフィックだった。
「……え? これ、いつの間に……」
「さあ? 四六時中か、それともランダムか。このラボのWi-Fiルーターが、あなたたちのすべてを私に報告してくれるわ」
白波所長は青ざめる二人に静かに顔を近づけ、耳元で甘く囁いた。
「もちろん、やましいことはなにもないわよ。科学的な検証だものね?」
ヒールの音を静かに響かせながら、所長は嵐のように去っていった。
残されたメインモニターには、潮目の「動揺度:99%」と、ナギの「諦め度:100%」というテキストが虚しく明滅している。
「ナギ君……僕たち、これからはルーターの前で鼻毛も抜けないね……」
「潮目さん、それ以前に『息をする動作』すらボスのサーバーにログとして永久保存されます。観測者だったはずの私たちが、完全に実験用ラットの立場になりました」
電波は目に見えない。だが確かに、壁の向こうから自分たちを見つめている。
潮目は手元の自作アンテナをそっと置き、冷めきったコーヒーを寂しくすするのだった。
