想像もつかない「無」の観測記録:学生が作った宇宙ラジオは、ダークマターの代わりに何を聞いたのか
真夜中のラボと、烏龍茶に擬態した梅酢
「ぶっふぉぉ!ごほっ!げほっ!な、なんだこれぇ!?」
深夜のラボに、潮目の盛大なむせび声が響き渡る。
手にしたマグカップを放り出し、シンクに駆け込む潮目の背中を、ナギは静かに見つめていた。
「……ぷはーっ!し、死ぬかと思った……」
「潮目さん。それは昨日私が健康のためにと買ってきた梅酢ですが」
「えっ、烏龍茶じゃなかったんですか!?」
「その茶色い液体を烏龍茶だと信じて疑わず、一気に呷る思考回路が私には理解できません。想像もつかないというか……ふっ、くくっ」
珍しく肩を震わせ、必死に笑いを堪えるナギ。
その様子に、潮目は少しむっとする。
「な、ナギ君ひどい!こっちは命の危機だったんですよ!?」
「すみません。でも、何をどうすればそうなるのか、想像の斜め上すぎて……あははっ」
「うぅ……。でもねナギ君、科学の世界は、僕らの『想像もつかない』ことの連続なんですよ!」
潮目は咳き込みながらも、濡れた手でモニターを指差した。
何も聞こえなかった「宇宙ラジオ」の記録
「ほら、この論文を見てください!まさに想像もつかない世界のデータです!」
ナギが呆れ顔で覗き込んだモニターには、難解な数式とグラフが並んでいた。
「ダークマターの探索実験ですか。また随分と専門的なものを」
「この観測データ、まるで宇宙からの謎の信号みたいじゃないですか!?」
No significant signal was found, allowing us to exclude an axion-photon coupling gaγγ = 14.6 · 10-13 GeV-1 for the full mass range and gaγγ = 2.8 · 10-13 GeV-1 at peak sensitivity with a 95% confidence level. This limit surpasses previous constraints by more than two orders of magnitude.
(有意な信号は検出されず、95%の信頼度で、全質量範囲においてアクシオン-光子結合gaγγ = 14.6 · 10-13 GeV-1、ピーク感度においてgaγγ = 2.8 · 10-13 GeV-1を排除することができた。この制限は、これまでの制約を2桁以上上回るものである。)
出典: A new limit for axion dark matter with SPACE : Journal of Cosmology and Astroparticle Physics (配信元: IOPscience)
「潮目さん。落ち着いて最初の5単語を読んでください。『No significant signal was found』と書いてあります」
「え?」
「つまり『有意な信号は検出されなかった』。何も聞こえなかった、という論文です」
「な、なんだってー!?」
がっくりと肩を落とす潮目。
そんな彼に、ナギは別のウィンドウを見せる。
「ですが、この『何も聞こえなかった』という結果の背景が、想像以上にすごいんですよ」
"We were told that setups like ours could one day become standard student lab experiments," says Salama. "In a way, we may have anticipated that future, showing that it is already possible to build and operate such an experiment on a small scale."
(「私たちのような装置は、いつか標準的な学生の実験室での実験になるかもしれないと言われました」とサラマ氏は言います。「ある意味で、私たちはその未来を先取りし、このような実験を小規模で構築・運用することがすでに可能であることを示したのかもしれません」)
出典: Students build a “cosmic radio” to listen for dark matter : ScienceDaily (配信元: ScienceDaily)
「無」が語る、科学の誠実さと未来
「こ、これって、このすごい精度の実験装置を、学生さんたちが作ったってことですか!?」
「その通りです。彼らは自分たちの手で『宇宙ラジオ』を作り、ダークマターの声を聴こうとしたんです」
「うわー!なんてロマンなんだ!いやはや、素晴らしい!」
興奮気味に身を乗り出す潮目。
「でも、何も聞こえなかったんですよね……。残念だっただろうなぁ」
「そこが科学の面白いところです。『何も見つからなかった』という結果は、失敗じゃない。『ここには無い』という確かな知識なんです。未来の探査の無駄を省く、重要な道しるべですよ」
「そっか……。そうですよね!『この烏龍茶だと思ったものは梅酢だった』と知ることで、僕は二度と同じ過ちを繰り返さない……それと同じですね!」
「その例えが想像もつかないですが、まあ、そういうことです」
ナギはため息をつく。
「でも、検出できなかっただけで、ダークマターが全く別の形で存在する可能性はありますよね!例えば、僕が飲んだ梅酢みたいに、実は液体で、すっぱい味がするとか!」
「その発想は面白いですが、ダークマターは重力以外の相互作用をほとんどしないので、味覚で感じることはできません。潮目さんの舌が宇宙の真理に触れることはないでしょう」
「夢がないなぁ、ナギ君は!でも、もしこの学生さんたちが作った『宇宙ラジオ』の技術を応用できたら……」
「ほう?」
「うちのラボの観測機材と組み合わせれば、今まで聞こえなかった野生動物の微弱な生体信号とか、深海の未知の生物が発する音とか、そういうのが聞こえるようになるかもしれませんよ!」
「……ダークマターの代わりに、地球の未知の声を聞く、ですか。それは……悪くないアイデアですね。ボスに予算申請を検討してみましょうか」
「でしょ!?いやー、想像が膨らみますね!」
想像もつかない結末
「よーし!僕も梅酢パワーで、さっそく新しい観測装置の設計図を……!」
潮目が興奮して勢いよく立ち上がった、その瞬間だった。
ガシャーン!バチッ!
彼の足が、床に置いてあった梅酢の瓶に引っかかった。
大きく体勢を崩した潮目は、そのまま機材ラックに突っ込み、メイン電源のケーブルを引っこ抜いてしまった。
ブツン。
全てのモニターが消え、ラボは完全な闇に包まれる。
聞こえるのは、ハードディスクが立てる悲しいスピンダウンの音だけだ。
「……」
「……」
静寂の中、ナギの冷静な声が響いた。
「これもまた、想像もつかない結末ですね、潮目さん」
闇の中で、潮目の盛大で長い、長いため息が聞こえた。