永遠に歩くためのサイエンス。足湯と膝関節と僕らの未来。
お湯とため息と、未来の健脚
ラボの片隅。大きなタライに張られたお湯から、ほかほかと湯気が立ち上っている。
「あ〜……効く〜〜〜!」
潮目の素っ頓狂な声が響いた。今日のフィールドワークで酷使した足をタライに浸し、至福の表情を浮かべている。
「一日中歩き回った足に、じんわり染み渡りますね…!」
「本日の総歩数は2万8451歩。累積標高差は623m。確かに、酷使という表現が妥当な数値です」
隣で同じように足湯に浸かっているナギが、淡々と事実を告げる。
「いやはや、ナギ君が観測機材の大半を運んでくれたおかげですよ。でも、僕も歳をとってもこうやって自分の足でしっかり歩き回りたいものです」
「健康寿命、ですね。そのためには、特に下半身の関節のメンテナンスが重要になります」
データが示す、最高の「足メンテ」
潮目は自分の膝をさすりながら、少しだけ不安そうな顔になった。
「最近、階段を降りるときに膝がちょっと…。ギシギシ言うというか、嫌な感じがするんですよね」
「…潮目さん。ちょうど、そんなあなたにうってつけの観測データがありますよ」
ナギがこともなげに、手元の防水タブレットの画面を潮目に見せた。
In patients with knee osteoarthritis, aerobic exercise is likely the most beneficial exercise modality for improving pain, function, gait performance, and quality of life, with moderate certainty.
(変形性膝関節症患者において、有酸素運動は、痛み、機能、歩行能力、生活の質を改善するための最も有益な運動様式である可能性が高く、その確実性は中程度である。)
出典: Comparative efficacy and safety of exercise modalities in knee osteoarthritis: systematic review and network meta-analysis. : BMJ (配信元: BMJ)
「有酸素運動!やっぱり僕らがやっているフィールドワーク、つまりウォーキングは正義だったんですね!」
「ええ。さらにこちらの解説によれば、もはや『治療』の領域のようです」
ナギは指でスワイプし、関連ニュースの記事を表示する。
Based on the results, the researchers recommend aerobic exercise "as a first line intervention for knee osteoarthritis management, particularly when the aim is to improve functional capacity and reduce pain."
(この結果に基づき、研究者らは「変形性膝関節症の管理における第一選択の介入として、特に機能的能力の改善と痛みの軽減を目的とする場合には、有酸素運動」を推奨している。)
出典: Scientists reveal the best exercise for knee arthritis pain relief : BMJ Group (配信元: ScienceDaily)
「第一選択の介入!すごいじゃないですか!薬とか手術の前に、まずは歩けってことですよね。いやはや、素晴らしいデータです!」
潮目はパシャパシャとお湯を跳ねさせて興奮している。
膝から始まる、人間拡張の夢
「このデータを突き詰めれば、僕たちも100歳になっても元気にフィールドワークができるってことですよ!」
潮目の目は、もうタライのお湯ではなく、遥か遠い未来を見つめていた。
「いや、むしろこれを応用して生体部品を機械に置換すれば、半永久的に歩き続けられるサイボーグが誕生する日も近いのでは…!?」
「…飛躍が過ぎます、潮目さん」
ナギの冷静な一言が、潮目の妄想に冷や水を浴びせる。
「これはあくまで、変形性膝関節症の痛みを緩和し、機能を改善するための運動療法に関するデータです。サイボーグ化の論文ではありません」
「でも、夢があるじゃないですか!歩行をアシストしてくれるパワードスーツとか!歩けば歩くほど膝関節が自己修復するナノマシンとか!」
「パワードスーツは動力源とバッテリーの問題が。ナノマシンはそもそも実用化の目処が立っていません。もっと現実的な話をしましょう」
ナギは少しだけ考える素振りを見せた。
「例えば、歩行パターンや着地時の衝撃をリアルタイムでセンシングして、膝に負担の少ない最適な運動負荷を提案してくれるスマートインソールなら、ラボの技術でも開発可能かもしれませんね」
「それだ!ラボトロニカ特製・健脚インソール!歩くだけで自分の足が長持ちするなんて、最高じゃないですか!すぐに開発しましょう!」
潤滑油が切れる前に
すっかり元気を取り戻した潮目は、満足げにナギに笑いかける。
「ナギ君は最新鋭のボディだから、関節痛なんて無縁で羨ましいですよ」
そう言われて、ナギは足湯からすっと足を上げた。そして、その場で立ち上がろうとした、その瞬間。
「……ギシッ」
彼の左膝のあたりから、微かだが、しかし明確な軋み音が響いた。
「えっ」
潮目が固まる。ナギも、動きを止めて自分の膝を見つめている。
「…報告します。左膝関節ユニットの潤滑油圧に、軽微な低下を検知。推奨メンテナンス時期を、84時間超過しています」
「なんだってーっ!?それは大変じゃないですか!僕の秘蔵の超高性能潤滑オイルを持ってきますから、ナギ君は絶対にそこで動かないでくださいね!」
潮目はバシャバシャと水を撒き散らしながら、ラボの奥へと工具箱を探しに駆けていった。
一人残されたナギは、異音を発した自分の膝を静かにさすりながら、ぽつりと呟く。
「…やれやれ。私の心配より先に、ご自身の膝を心配したほうがいいと思いますけどね」
その口調は呆れているようで、湯気の向こうの横顔は、どこか少しだけ、温かく見えた。