記憶を蝕むタンパク質PTP1Bの謎と、おばあちゃんの握力
朝の横断歩道と、おばあちゃんの握力
「いやー、ナギ君聞いてよ! 今朝、出勤途中にさ」
ラボに到着するなり、潮目は興奮した様子でカバンをデスクに置いた。
「どうせまた、カラスにパンでも奪われた話でしょう」
冷静にモニターを拭きながら、ナギは振り返りもせずに応じる。
「違うって! 今日は良い話。横断歩道で、おばあちゃんが重そうな荷物を持っててね。思わず手伝ったんですよ」
「潮目さんにしては殊勝な心がけですね」
「でさ、その荷物が予想の3倍くらい重くて! りんごでも詰まってるのかな。よくあんなの運んでたなって感心しちゃった。ああいうふうに日常的に身体を使ってる人って、きっとボケないんだろうなって」
潮目はどこか誇らしげに胸を張る。
甘いわね。記憶の現実を見なさい
ふと、ラボの入り口から凛とした声が響いた。
「……甘いわね、潮目」
その声に、潮目とナギの背筋が凍りつくように伸びる。いつの間に現れたのか、純白のラボコートを優雅に着こなした白波所長が、腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「しょ、所長!? いつからそこに……」
「あなたの言う『ボケ』と、病理的な認知機能の低下は別物よ。感傷に浸る前に、この現実を見なさい」
所長はそう言うと、自身の端末からラボのメインモニターへ一つのデータを転送した。
Here, we demonstrate that genetic deletion or pharmacological inhibition of protein tyrosine phosphatase 1B (PTP1B) ameliorated memory deficits and reduced Aβ burden in APP/PS1 mice.
(我々は、タンパク質チロシンホスファターゼ1B(PTP1B)の遺伝的欠失または薬理学的阻害が、APP/PS1マウスにおける記憶障害を改善し、Aβの負荷を減少させることを実証する。)
出典: PTP1B inhibition promotes microglial phagocytosis in Alzheimer’s disease models by enhancing SYK signaling : Proceedings of the National Academy of Sciences (配信元: PNAS)
「PTP1B……これが、記憶障害を改善する?」
潮目が食い入るようにモニターを見つめる。
「ええ。ですが、このタンパク質を阻害する、という一点だけで全てが解決するわけではありません。ボスが転送されたデータには続きがあります」
ナギは冷静に手元の端末を操作し、関連解説記事をモニターに並べて表示させた。
"Using PTP1B inhibitors that target multiple aspects of the pathology, including Aβ clearance, might provide an additional impact," says Ribeiro Alves.
出典: Scientists restore memory by blocking a single Alzheimer’s protein : Cold Spring Harbor Laboratory (配信元: ScienceDaily)
「Aβ……アミロイドベータの除去、か。なるほど、複数の病理に働きかける必要がある、と」
もしも記憶をコントロールできたら?
「うおお……! PTP1B! まるで記憶を盗む怪盗か、悪の組織みたいな名前じゃないですか!」
潮目は両手を広げ、途端に目を輝かせた。
「違います。ただのタンパク質です。このPTP1Bを阻害することで、脳内の免疫細胞であるミクログリアが活性化し、アルツハイマー病の原因物質とされるアミロイドベータを『食べて』くれる……そういうメカニズムのようです」
ナギの淡々とした解説に、潮目の妄想はさらに加速する。
「ミクログリアが脳のお掃除屋さんだったなんて! まるで超小型の自律型ドローンですね! いやはや、素晴らしい……!」
「またすぐそっちの発想に飛びますね、潮目さんは」
「だって考えてもみてよ、ナギ君! もしもこのPTP1Bを自在にコントロールする技術が確立されたら……?」
潮目は身を乗り出して熱弁する。
「不要な記憶だけをピンポイントで消去したり、逆に脳のお掃除機能をブーストして、常にクリアな思考を保つことも可能になるかもしれない! 僕らの観測ドローンにも応用できるぞ! フィールドで集めた膨大なデータの中から、ノイズ成分だけを自律的に『捕食』して除去するシステムとか……!」
「……ラボのサーバーの不要なキャッシュを自動削除する機能なら、検討の価値はあるかもしれませんね」
ナギも少しだけ、その未来像に興味を示したようだった。
まず記憶すべきは足元の配線
議論が白熱し、潮目は新しいアイデアをホワイトボードに書きなぐろうと勢いよく立ち上がった。
その、瞬間。
ガシャンッ!
「うわっ!?」
潮目の足は、無残にも彼のデスク下から伸びる電源ケーブルに絡まり、見事なまでに床に転がった。
静まり返るラボ。
「…………潮目さん」
ナギがゆっくりと、深く、ため息をつきながら口を開いた。
「脳の記憶機能を改善する前に、まずご自身の足元にある配線の位置を記憶する能力から改善した方がよろしいかと」
その言葉を聞いて、それまで静観していた白波所長が、ふ、と口元に手を当てて微笑んだ。
「……ふふっ」
凛とした美貌に浮かんだその小さな笑みに、潮目は転がったまま顔を真っ赤にするしかなかった。