スモモの木と観測者が見た涙の味
優雅な朝と、スモモを巡る死闘
徹夜明けのラボは、静寂とコーヒーの澱んだ香りに満ちていた。
潮目はマグカップに残った最後の液体を啜りながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「はぁ……」
「今年も大変だったな、うちのスモモ……」
春先、可憐な花が咲いたと思えば、どこからともなくヒヨドリの群れが襲来し、花弁を無残に食い散らかしていく。
なんとか受粉して小さな実がついたと喜んだのも束の間、今度は生理落果でポロポロと落ちていく。
梅雨が近づけば、葉の裏にはハダニとアブラムシがビッシリと城を築き、夏になればシャクトリムシが柔らかい新梢をムシャムシャと食べ尽くす。
「たかが鉢植え一つに、なんでこんなに苦労しなきゃいけないんだ……」
カツン、と。
静寂を切り裂くように、澄んだヒールの音がラボに響いた。
振り返る間もなく、ふわりと優雅な香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
「あなたの朝食より、ずっと目が覚めるものよ」
いつの間に現れたのか。白波所長が、純白のテーブルクロスを潮目の散らかったデスクに広げ、最高級のティーセットを並べていた。
ナギが音もなく潮目のカップ麺の残骸を片付けていく。
湯気の向こうで妖艶に微笑む所長の手には、一枚のデータファイルが握られていた。
葉の上に残された、見えざる境界線
「しょ、所長!? なぜここに……というか、これって……」
潮目が育てているスモモの木で、今まさに大発生している害虫の名前がそこにあった。
「あなたの家のベランダまで観測範囲に入っているとでも思った? 偶然よ。……読みなさい」
促されるまま、潮目はタブレットに表示されたデータに目を走らせた。
This study is the first demonstration of a repellent effect of herbivore trace chemicals on heterospecific herbivores.
(本研究は、草食動物の足跡に含まれる化学物質が、異種の草食動物に対して忌避効果を持つことを初めて実証したものである。)
出典: Spider mites avoid caterpillar traces to prevent intraguild predation : Scientific Reports (配信元: Nature)
「ハダニが……イモムシの足跡を避ける? なんでです!? イモムシはハダニを食べたりしないのに!」
「潮目さん、こちらのデータもどうぞ」
冷静なナギの声。彼女の端末には、関連ニュースが表示されていた。
農業における生物的防除として足跡の化学成分を使えば、害虫のハダニと天敵のカブリダニを同じ場所に誘導することができ、害虫被害の低減につながる可能性があるという。
出典: 肉食のカブリダニ、草食の芋虫の足跡を避けて産卵する 京都大 : サイエンスポータル (配信元: サイエンスポータル)
「天敵のカブリダニを同じ場所に……? あ、なるほど! ハダニはイモムシ自体を怖がっているわけじゃなくて、イモムシを食べる『何か』が来るのを警戒して、その痕跡を避けてるってことか!」
害虫が残す「結界」と未来の観測技術
「すごい! これですよ所長、ナギ君! まさに『見えざる境界線』じゃないですか!」
潮目は興奮して立ち上がった。
「このイモムシの足跡成分をスプレーにすれば、僕のスモモの木にハダニが寄り付かなくなるかもしれない! これはもう、太古の昔から植物が自衛のために展開していた不可視の結界ですよ! 地球外生命体が残したオーパーツ的な何かに違いありません!」
「潮目さん、それはただの化学物質です。エイリアンは葉っぱの上を歩きません」
ナギの冷静なツッコミに、潮目はハッと我に返る。
「あ、そっか……。でも、特定の生物だけを避ける匂いって、応用範囲が広くないですか?」
潮目はラボの隅に置かれた観測ドローンに目をやった。
「例えば、この忌避成分をドローンの機体にコーティングするんです! そうすれば、特定の生物に警戒されずに超至近距離での生態観測が可能になるかもしれない!」
「……なるほど。観測対象の生態系を乱さない、ステルス観測技術ですね。捕食者を避けるための化学信号を利用する……それは、検討の価値がありそうです。予算要求書を作成しますか?」
「やろう! これで僕のスモモも、アマゾンの奥地の秘境も、平和に観測できる!」
潮目とナギが盛り上がっていると、いつの間にか紅茶を飲み干した所長が、静かに立ち上がった。
そして、潮目が届けたかったもの
「いいわ」
所長はカップをソーサーに戻すと、潮目たちの横をすり抜けて出口へと向かう。
その背中が、ドアノブに手をかける直前、ふと止まった。
「今日のレポート、悪くない着眼点だったわ」
振り返らずに小さく呟かれたその言葉に、潮目は完全にフリーズした。
「えっ……!? な、ナギ君! 今、所長が……褒め……!」
「はい。所長のデレ音声、サンプリング完了。永久保存プロセスに移行します」
無表情でキーボードを叩くナギ。
やがて所長のヒールの音が完全に聞こえなくなり、ラボにはまた静寂が戻ってきた。
「……はは。でもまあ、結局うちのスモモは、そんなハイテク技術がなくても、なんとか収穫できたんだよね」
「あれだけ毎朝、虫を手で取っていましたからね。それで、その大量のスモモはどうしたんですか?」
「うん。半分、親戚のおばさんにあげたんだ。ちょっと病気でさ、もう先が長くないかもしれないって言われてて」
潮目は、数日前の光景を思い出していた。
「でも、すごく喜んでくれて。『潮目ちゃんが育てたスモモ、美味しいね』って、笑ってくれてさ」
鳥と戦い、虫と戦い、落ちていく実に一喜一憂した、あの鉢植え。
「……大変だったけど、最後にあの顔が見れたから、育ててよかったなって。いい思い出を、あげられたかな」
気づけば、視界が少し滲んでいた。
ナギは何も言わず、潮目の空になったティーカップを下げると、代わりに新しいコーヒーを淹れて、そっとデスクに置いてくれた。
その優しい香りが、ラボに満ちていた。