筋肉は裏切らない?データが示す「楽な筋トレ」の不都合な真実
パンフレットとため息
ラボの片隅で、潮目が一枚のパンフレットをうつろな目で見つめていた。
色鮮やかな紙面には、汗を輝かせながらバーベルを持ち上げる人々の笑顔が満ちている。
「はぁ……やっぱり、筋肉は正義、なんですかね……」
「潮目さん。またケーブル踏んでますよ」
いつの間にか背後に立っていたナギが、無慈悲に指摘する。潮目は慌てて足元を確認し、よろめいた。
「うわっと! いや、ナギ君。これはだね、昨今のフィットネスブームについて考察を……」
「そのパンフレット、もう30分も眺めてますけど。入会するんですか?『エンジョイ!マッスル・パラダイス』に」
「名前のクセがすごい! いや、でもさ、やっぱりたくましい身体って憧れるじゃないか。そのためには、こう……筋肉を一度ぶっ壊すくらいの、ハードなトレーニングが必要なんだろ?」
潮目は力こぶを作るポーズをしながら、得意げに言った。
「筋肉痛は努力の証、みたいな。乳酸がどうとか……」
ナギは静かにため息をつくと、手元のタブレットを操作した。
「その常識、少し古いかもしれませんよ」
筋肉痛は「ご褒美」ではなかった
「え? 古いってどういうこと?」
潮目がきょとんとする横で、ナギはタブレットの画面を彼に向けた。
「例えば、こんな観測データがあります」
Eccentric exercise is both a cause of muscle damage and a powerful stimulus for health and fitness promotion. Muscle damage is not inevitable, and it is not required for improvements in muscle size, strength, or performance.
(エキセントリック運動は、筋損傷の原因であると同時に、健康とフィットネスを促進する強力な刺激でもある。筋損傷は不可避なものではなく、筋肥大、筋力、パフォーマンスの向上のために必須というわけではない。)
出典: Eccentric exercise: Muscle damage to the new normal : Journal of Sport and Health Science
「うそ……筋損傷は、必須じゃない……?」
潮目は信じられないといった様子で、画面を食い入るように見つめる。
「じゃあ、僕が今まで味わってきたあの激しい筋肉痛は、一体……」
「無駄とは言いませんが、必ずしも効率的とは言えないかもしれませんね。むしろ、こちらの二次情報の方が分かりやすいかと」
ナギはスワイプして、別の記事を表示させた。
"The idea that exercise must be exhausting or painful is holding people back," ECU's Director of Exercise and Sports Science, Professor Ken Nosaka, said. He points to a different approach that can be more effective and far easier to stick with.
(「運動は消耗するものであったり、苦痛なものでなければならないという考えが、人々を妨げているのです」とECUの運動・スポーツ科学部長であるケン・ノサカ教授は語った。彼は、より効果的で、はるかに続けやすい別のアプローチを指摘している。)
出典: You don’t need intense workouts to build muscle, new study reveals : Edith Cowan University
「運動は苦痛である必要はない……ですって!?」
潮目の目が、パンフレットのモデルたち以上に輝き始めた。
「マジか! つまり、ゴロゴロしてるだけでムキムキになれる時代が来たってこと!?」
観測は、最高のトレーニングだ
「……拡大解釈が過ぎます」
ナギは呆れたように首を振った。
「潮目さん、これは『運動が不要』と言っているわけではありません。『過度な苦痛は不要』というだけです。重要なのは、継続可能な適度な負荷ですよ」
「むむむ……。でも、継続可能な負荷って言われてもピンとこないな。やっぱり、こう、宇宙人のテクノロジーで筋肉を直接……」
「またSF的な妄想が始まりましたね」
ナギは潮目の暴走を遮る。
「もっと身近な話です。例えば、私たちのフィールドワークを思い出してください」
「ああ、先日の湿地帯での観測とか?」
「そうです。あのぬかるみの中、重い機材を背負って何キロも歩く。あれは特定の筋肉群に、低強度で持続的な負荷をかけ続けています。まさに、データが示す『効果的なアプローチ』に近い状態と言えるのでは?」
その言葉に、潮目はハッとした。
「なるほど! 確かに、観測の翌日は心地よい疲労感があるだけで、動けないほどの筋肉痛にはならない……。つまり、僕らは知らず知らずのうちに、最高のトレーニングを実践していた……?」
「仮説ですが、その可能性はあります。各観測地の環境負荷と身体データをマッピングすれば、ラボトロニカ独自の『フィールドワーク・フィットネス理論』が確立できるかもしれません」
「それだ! 『観測は、最高のトレーニングだ!』ってキャッチコピーで、学会に殴り込みをかけよう! ガジェットも作ろう! 歩くだけで発電して観測データを自動送信する『マッスル・センサー・ブーツ』とか!」
すっかり興奮した潮目が、ラボの中を歩き回り始めた。
「よし、僕もまずは理想の身体を目指さないと! 目標は……そうだな、やっぱり所長みたいな、しなやかで強靭な肉体だ!」
発掘された最強のボス
「……ボス、ですか」
ピタリ、とナギの動きが止まった。
「そうだよ! 白波所長って、普段は知的でクールだけど、実はすごい体幹してそうじゃないか? あの姿勢の良さ、無駄のない動き。まさに機能美の……」
「潮目さん」
ナギが静かに、しかし有無を言わせぬ圧力で潮目の言葉を遮る。
「これを」
差し出されたタブレットの画面には、古い動画が再生されていた。
画質は粗いが、はっきりと分かる。そこには、道着に身を包んだ、まだあどけなさの残る黒髪の女性が映っていた。
鋭い踏み込み。しなやかな回し蹴りが、一瞬にして屈強な対戦相手を沈める。
「え……ええええええ!? これ、もしかして……」
「ボスです。学生時代のフルコンタクト空手の試合映像が、最近ネットの片隅で発掘されたらしく」
潮目は言葉を失い、ただ口をパクパクさせている。
画面の中の若き白波所長は、圧倒的な強さで勝利を収めると、一瞬の表情も変えずに深く一礼した。
その姿を、ナギはうっとりとした目で見つめていた。
普段の冷静沈着な様子はどこにもない。その瞳には、純粋な憧憬と尊敬の念が宿っている。
「……美しい。完璧な上段廻し蹴り。一切の無駄がない、最適化された運動エネルギーの伝達。これこそが、データと風景のあいだ……いえ、機能美の極致です……」
その呟きは、もはや潮目の耳には届いていなかった。