1770億ドルの湿原は、少年の日の夢を見るか
草むらに潜むロマンチスト
じっとりとした空気が肌にまとわりつく。足元ではぬかるんだ大地が長靴を優しく飲み込もうとしていた。
風が葦の葉を揺らす音と、遠くで鳴く鳥の声だけが響く静寂の湿原。
その中で、泥まみれの迷彩服を着た男が一人、地面に這いつくばっていた。潮目だ。彼の視線は、朝露に濡れてキラキラと輝く、小さな食虫植物に注がれている。
「いやはや、美しい……。このモウセンゴケの粘液の輝き、完璧な捕虫のメカニズム。中学生の頃、親父にねだって連れてきてもらった時と何も変わらないな」
潮目はうっとりと呟く。少年時代の記憶が、目の前の風景と重なっていく。
背後で、カシャリと金属質な音がした。助手のナギが、無言で観測機材のセッティングを終えた音だ。
「潮目さん。擬態のつもりなら、そのニヤニヤ顔が台無しにしていますよ」
スマートグラスに無機質なデータを投影しながら、ナギは淡々と告げた。
「これは擬態じゃない、共感だよナギ君! 僕は今、この湿原と一体になっているんだ!」
「そうですか。では、一体化しているその湿原が、経済的にどれだけの価値を失いつつあるか、ご覧になりますか」
ナギが指先でタブレットをタップすると、潮目の視界に冷たいデータが割り込んできた。
失われた101億ドルのスポンジ
「うわっ!? なんだいこれ!」
潮目は思わず飛び起きた。目の前に投影されたグラフと数字が、感傷的な気分を吹き飛ばす。
「あなたが愛でているその風景の、もう一つの顔です。まずは、この論文の結論から」
ナギは淡々と、最初のデータを表示する。
Based on these effects, we estimate that wetland loss since 1985 has increased flood insurance claims by a total of US$10.1 billion or 9.0%.
(これらの影響に基づき、我々は1985年以降の湿地減少が洪水保険金請求額を合計で101億ドル、率にして9.0%増加させたと推定する。)
出典: Wetland loss increases riverine flood losses in the United States : Nature Water (配信元: nature.com)
「101億ドル……。湿地がなくなったせいで、洪水被害の保険金がそれだけ増えたってことかい!?」
「その通りです。この湿原のような天然のスポンジが失われた結果、人間の社会が直接的な金銭的ダメージを負っている、という証明ですね」
「なんてこった……。僕がここで見ていた美しい自然が、そんな巨大な防波堤の役割を果たしていたなんて」
潮目は呆然と立ち尽くす。だが、ナギの提示するデータはそれだけでは終わらなかった。
「それはあくまで『失われた価値』の話です。今、ここに残されている価値は、もっと桁が違いますよ」
After accounting for state-level protections and conserved lands, this study estimates that non-WOTUS wetlands without additional protections provide roughly $177 billion in flood mitigation benefits to residential properties alone, highlighting what may be at stake as policymakers consider the future of wetland protections.
出典: Wetlands loss has increased residential flood insurance payments by more than $10 billion since 1985 : Phys.org (配信元: Phys.org)
「ひゃ、ひゃくななひゃく……ななじゅうおくドル!?」
潮目は素っ頓狂な声を上げた。
データと風景のあいだ
「1770億ドル……。保護されていない湿地だけでも、それだけの洪水緩和効果があるっていうのかい……?」
「ええ。住宅への恩恵だけでも、です。まさに天然の巨大インフラですよ」
潮目は興奮してあたりを見回した。
「すごい! これはもう、ただの自然じゃない! 地球が生んだ自己防衛システムだ! もしかしたらこの湿原の地下には、惑星規模の意識集合体がいて、地上の生態系をコントロールしてるんじゃないかな!?」
「飛躍しすぎです。ただ単純に、泥炭層が水を蓄え、植物が水の流れを緩やかにしているだけ。美しい物理現象ですよ、潮目さん」
ナギの冷静なツッコミに、潮目はむぅ、と口を尖らせる。
「ロマンがないなあ、ナギ君は! でも、このメカニズムは使えるぞ! この湿地の保水構造をナノマシンで再現して、ラボの新型ドローンに応用したらどうだろう? 空飛ぶ給水タンクだ!」
「予算の無駄です。それより、都市のアスファルトにこの構造を応用するほうが現実的でしょうね。『自己吸水型コンクリート』として特許を取れば、ボスのボーナスも弾むかもしれません」
「それだ! ラボトロニカ・ウェット・コンクリート! ゲリラ豪雨対策の切り札になるぞ!」
ひとしきり盛り上がった後、潮目はふと我に返り、足元の食虫植物に視線を戻した。
「でもさ……。この洪水防止っていう経済的価値は、この湿原が持つ価値の、ほんの一部でしかないんだよな」
彼の声は、いつもの熱っぽさが消え、静かな響きを帯びていた。
「虫がいて、その虫を食べる鳥がいる。微生物が水を浄化し、植物が酸素を生み出す。その全てが絡み合って、初めて1770億ドルの価値が生まれるんだ」
「……データは、生態系サービスの一部を切り取って可視化したに過ぎませんからね」
ナギも同意するように、静かに頷いた。
計算できない価値
傾きかけた太陽が、湿原全体をオレンジ色に染め上げていく。
無数の小さな命が蠢く大地と、それを照らし出す壮大な光。データが示す経済的価値と、目の前に広がる測りようのない美しさが、潮目の心の中で静かに溶け合っていく。
「データは湿地の価値をドルで教えてくれた。それは素晴らしいことだ。でも、この夕日の美しさや、草の匂いが持つ価値は、どんなスーパーコンピューターでも計算できないんだよな」
潮目は水筒のコーヒーを一口飲むと、遠くの地平線を見つめた。
「……そうですね」
ナギは珍しく、反論もツッコミもせず、ただ静かに隣に立っていた。
「我々が本当に観測すべきなのは、その『計算された価値』と『計算できない価値』の、あいだにあるものなのかもしれません」
二人は言葉を失い、ただ黙って沈みゆく太陽を見送る。
データと風景が交差する黄昏時。観測は、まだ始まったばかりだった。