華やかなファッション業界の裏側で、そんなことが起きてたなんて?
服と、中身と、白波所長
ラボの静寂を破ったのは、潮目のふとした呟きだった。
モニターの光が反射するコーヒーカップを眺めながら、彼はどこか遠い目をして言った。
「なあ、ナギ君」
「はい、潮目さん。今度は何を踏みましたか?」
「何も踏んでないよ! そうじゃなくて、所長のことなんだけどさ」
ナギはサーバーラックの配線をチェックする手を止め、ゆっくりと潮目の方を向いた。
「ボスがどうかしましたか? また何か請求書で怒られるような機材でも壊しました?」
「違う違う! 白波所長って、いつもすごくシンプルな服を着てるじゃないか。きらびやかなブランド物とかじゃなくて」
「そうですね。装飾の少ない、機能的で美しいデザインを好まれる傾向にあります」
「なのに、なんであんなに見栄えがするんだろう。美人さんだからってだけじゃ説明がつかない、なんていうか……オーラ?」
潮目の言葉に、ナギは小さく息を吐いた。
「潮目さん。それは服が大事なのではなくて、ナカミが大事だということの証明です」
「ナカミ……」
「ええ。圧倒的な知性と、揺るぎない自信、そして誰にも真似できない実績。それらがボスのオーラを形成しているんです。着ているものが本体の価値を決めるわけではありません」
ナギの力説に、潮目は深く頷いた。
「そっか……ナカミ、か。僕ももっとナカミを磨かないと……!」
そう言って勢いよく立ち上がった拍子に、潮目の足がLANケーブルに引っかかった。
「あっ」
ガシャン、と派手な音を立てて観測機材が床に転がる。
「……その前に、まず足元を見るクセをつけた方がいいかと思います」
ナギの冷ややかな声が、ラボに響き渡った。
きらびやかな色の代償
機材を片付け終えた潮目は、気を取り直してディスプレイに向き直った。
「いやはや、でも服といえば、その原料となる繊維や染料も僕らの観測対象ですよね! ちょうど面白いデータを見つけたんです!」
早口になった潮目が、一つの論文データをモニターに大写しにする。
「これを見てください! 繊維を染める染料を廃水から取り除くのに、塩、つまり塩化ナトリウムを加えると、すごい効率が上がるらしいんですよ!」
NaCl addition increased dye degradation and reduced energy demand but significantly elevated DBP formation, primarily chloroform from OD, as well as dibromochloromethane and bromoform from EY. Total OBP formation exceeded 250 and 1000 µg L−1 for OD and EY after 90 min of electrolysis, respectively.
(塩化ナトリウムの添加は色素の分解を促進し、エネルギー需要を減少させたが、消毒副生成物(DBP)の生成を著しく増加させ、主にオレンジIIからはクロロホルム、エオシンYからはジブロモクロロメタンおよびブロモホルムが生成された。電気分解開始90分後、オレンジIIおよびエオシンYにおける総酸化副生成物(OBP)の生成量は、それぞれ250および1000 µg L−1を超えた。)
出典: Formation of oxidation byproducts during electrochemical oxidation of textile dyes : Journal of Hazardous Materials (配信元: ScienceDirect)
「塩で効率アップなんて、すごいじゃないですか! コストも安いし、夢の技術ですよ!」
興奮する潮目を横目に、ナギは淡々とキーボードを叩く。
「潮目さん、その話には続きがあります。関連ニュースも合わせて確認してください」
隣のモニターに、ナギが呼び出した記事が表示された。
Textile wastewater treatment practices inadvertently produce toxic byproducts—including chloroform and bromoform—at alarming levels that pose a clear occupational health hazard and lead to unknown environmental effects downstream, University of Massachusetts Amherst researchers have found.
(マサチューセッツ大学アマースト校の研究者らによると、繊維廃水の処理方法は、意図せずしてクロロホルムやブロモホルムといった有毒な副生成物を驚くべきレベルで生成しており、それは明確な労働安全衛生上の危険をもたらし、下流の環境への未知の影響につながる。)
出典: Textile wastewater treatment generates alarmingly high levels of toxic byproducts : University of Massachusetts Amherst (配信元: Phys.org)
「……え? 有毒な副生成物? クロロホルムって、あの……」
潮目の顔から、さっと血の気が引いた。
「はい。効率は上がりますが、その代償として危険な化学物質が大量に生成される、と。きらびやかな色の裏には、相応のリスクが隠れているわけです」
ナギの静かな指摘に、潮目は言葉を失った。
見えない廃水と、未来のテクノロジー
「うわー……マジか……。華やかなファッション業界の裏側で、そんなことが起きてたなんて」
頭を抱える潮目。
「つまり、安くて綺麗な服を作ろうとすればするほど、見えないところで環境が汚染されていく可能性があるってことですよね」
「その通りです。そしてそれは、工場で働く人々の健康を直接的に脅かすことにも繋がります」
「……待てよ」
突然、潮目が顔を上げた。その目には、いつものロマンチストの光が宿っている。
「この有害物質が生成される化学反応……これって、逆に考えれば、何か別のエネルギーを取り出すための触媒として使えたりしないんですかね!? いわば、現代の錬金術ですよ!」
「残念ながら、現状ではただの有害物質生成プロセスです。夢を見る前に、この廃水が川に流れ込んだ場合の下流生態系への影響を考慮すべきですね」
ナギの冷静なツッコミに、潮目は「うぐぐ……」と唸る。
「ですよね……。じゃあ、じゃあですよ! もし、このクロロホルムとかブロモホルムだけを選択的に吸着して分解する、特殊なフィルターを搭載した観測ドローンを開発したらどうでしょう!」
「素晴らしいアイデアですね」
「え、本当!?」
「ええ。その開発予算の申請書、今すぐ書き始めますか? 稟議を通すのは潮目さんの仕事ですが」
「……やっぱり、そっちに話が行きますよね」
がっくりと肩を落とす潮目だった。
究極のサステナブル
二人の議論が白熱していた、その時だった。
カツ、カツ、と静かなラボにハイヒールの音が響く。
その音だけで、潮目とナギは背筋を伸ばし、ディスプレイに向き直った。
いつの間にか、二人の背後に白波所長が立っていた。
「……面白い話をしているわね。服の『ナカミ』が大事、ですって?」
ひやりとした、しかし美しい声。
「しょ、所長! い、いつの間に……!」
「それで、結論は出たのかしら。潮目」
「は、はい! つまり、見た目の美しさや効率だけを追求すると、その裏側で深刻な問題が起きる可能性がある、と! だからこそ、我々は物事の本質……そのナカミを見つめる必要があるんだと!」
必死に説明する潮目を、白波所長は静かに見つめている。
潮目は勇気を振り絞って、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「あの、所長! 所長の服は、いつもシンプルなのに、どうしてそんなに……その……素敵なんですか?」
質問の意図が分からず、ナギが訝しげな視線を潮目に送る。
白波所長は少しだけ目を細めると、ふっと微笑んだ。
「ああ、これ? 生地がいいからじゃないかしら」
「き、生地、ですか?」
「ええ」
所長は自分の袖を優雅につまむと、衝撃的な事実を告げた。
「この布地は、ほとんど私の家で作ってるのよ」
「「…………え?」」
潮目とナギの思考が、完全に停止した。
作ってる……!?