凍える細胞は「見えない光」で踊るのか? テラヘルツ波が拓く生命の新たな境界線
胡散臭い石と、本物の科学
薄暗いラボに、バールで木箱をこじ開ける音だけが響いている。
潮目研究員は、額に汗を浮かべながら一心不乱に作業を続けていた。
「うおおおっ、開いた! これが……伝説の超鉱石、テラヘルツナイト!」
潮目が箱の中から取り出したのは、鈍い光を放つ黒い石ころだった。
彼はそれをうやうやしく掲げ、恍惚の表情を浮かべている。
「見たかナギ君! この石から放たれる生命の光、テラヘルツ波が僕の細胞を活性化させるんだ!」
その背後から、呆れたような声がした。
助手のナギが、タブレットを片手に立っている。
「潮目さん。そのただのケイ素の塊に、ラボの予算で30万円も払ったんですか」
「ただの石じゃない! 宇宙の叡智が……」
「ちなみに、世の中に出回っている『テラヘルツ鉱石』なるものの多くは、テラヘルツ波をほとんど放射していないという観測データがあります。お買い上げ、どうも」
「うっ……」
ナギは冷たく言い放つと、タブレットの画面を潮目に突きつけた。
「そんなオカルトで予算を溶かす前に、こちらをご覧ください。本物のテラEヘルツ波に関する、よほど興味深い論文です」
光が細胞膜を「溶かす」?
潮目は悔しそうに鉱石を置き、ナギのタブレットを覗き込んだ。
そこには、びっしりと英語で書かれた論文が表示されていた。
「どれどれ……ふむふむ」
Under THz irradiation at 0.10 and 0.29 THz, the diffusion constants of lipid molecules were non-thermally increased when the sample temperature was lower than the cell growth temperature, a condition where the ordered phase of the cell membrane is predominant. Laurdan fluorescence imaging also shows that THz irradiation disorders cell membrane lipids at lower temperature.
(0.10および0.29 THzのテラヘルツ波照射下では、細胞増殖温度よりも低いサンプル温度で(細胞膜の秩序相が優勢な条件下で)、脂質分子の拡散定数が非熱的に増加した。また、Laurdan蛍光イメージングでも、テラヘルツ波照射が低温で細胞膜脂質を無秩序化させることが示された。)
出典: Scientific Reports(Order-disorder phase transition of cell membrane induced by THz irradiation)
「うおお! 『non-thermally increased』! 非熱的に増加した、だと!? やはりテラヘルツ波は生命のフォースだったんだ!」
潮目の知的なスイッチが入った。
「つまり熱じゃない別のエネルギーで、細胞膜の脂質を無理やり動かしてるってことですよね! 低温で固くなってる細胞膜を、テラヘルツ波が直接揺さぶって『溶かす』ようなイメージですか! いやはや、素晴らしいデータです!」
「落ち着いてください。フォースではありません。そして、この研究成果の意義は、もう少し現実的なところにあります」
ナギは冷静に、別の資料を画面に表示させた。
本研究成果は、今後のTHz周波数利用の安全性評価や、THz波のバイオ・医薬応用に貢献すると期待されます。
出典: 理化学研究所 プレスリリース (テラヘルツ波が細胞膜の相転移を誘起)
「安全性評価と、バイオ・医薬応用。これが現在の着地点ですね」
「いや、ナギ君! このデータはそんなちっぽけな話じゃない!」
冷凍マンモスと、未来のドローン
潮目は興奮冷めやらぬ様子で、ラボの中を歩き回り始めた。
「低温で硬直した細胞膜を『無秩序化』させる力が、非熱的に……だと? ナギ君、これはつまり、冬眠中のクマにテラヘルツ波を当てれば叩き起こせるってことじゃないか!?」
「そのクマに襲われても私は助けませんよ」
「もっと言えば、冷凍保存されたマンモスの細胞をこれで揺り動かせば……ジュラシック・パークの幕開けだ!」
ナギは深いため息をついた。
「……マンモスはさておき、もう少し現実的な話をしましょう。熱を加えず、特定の分子の動きだけを活発にできる。この一点が重要です」
「というと?」
「例えば、薬を細胞の奥深くまで届けるドラッグデリバリーシステムです。低温で機能が低下した患部の細胞に、テラヘルツ波を照射しながら薬を投与すれば、浸透効率が劇的に上がるかもしれません。熱でダメージを与えることなく、細胞の門戸をこじ開けるようなものです」
ナギの言葉に、今度は潮目の目がガジェット開発者のそれに変わった。
「なるほど! その応用、面白いじゃないか! だったら、僕たちの極寒地仕様ドローン『シモバシラ1号』のバッテリーに応用できるぞ!」
「バッテリー、ですか?」
「そうさ! マイナス50度の極地では、バッテリー内のリチウムイオンの動きが鈍くなって、すぐに機能停止してしまう。だが、バッテリーに超小型のテラヘルツ発生装置を組み込めばどうだ? イオンの動きだけを非熱的に活性化させて、活動限界時間を3倍にできるかもしれない!」
その突飛だが筋の通ったアイデアに、ナギも少しだけ目を見開いた。
「通常の3倍…!」
「ん? なにか言ったかいナギ君?」
「あ、いえいえ」
ナギはあらためて腕組みをし直した。
「……バッテリー内部のイオン拡散性を、非熱的に促進する。荒唐無稽ですが、理論上の可能性はゼロではないですね。ボスに報告する価値はあるかもしれません」
赤く塗って、とぼそっと呟くナギ。
「あかく?」
「あ、いや、なんでもないです」
未来への投資(と、その請求書)
二人の間に、わずかな共感と熱が生まれた。
潮目は勝利を確信したように、胸を張って言った。
「よし! この観測データをもとに新機材の開発だ! 見たかナギ君、僕が買ったこのテラヘルツナイトも、この発想のきっかけになったんだから、未来への投資だったわけだ!」
潮目が意気揚々と立ち上がる。
しかし、その目の前に、ナギが無言で2枚の紙を置いた。
一枚は、例の「テラヘルツナイト(ただの石)」の30万円の請求書。
もう一枚は今月のラボの経費報告書。予算は完璧にオーバーだ。
「……」
潮目は、何も言わずに静かに自分の椅子へ着席した。
ラボには、再び静寂が戻った。