旅は天然のアンチエイジング? エントロピーの法則で解き明かす、非日常の効能
溜息と、旅への渇望
ラボに響くのは、冷却ファンの静かな音と、潮目の盛大な溜息だけだった。
「はぁ……。ナギ君、僕、気づいちゃったんですよ」
「何をです? またケーブルを踏んで派手に転ぶ未来でも視えたんですか」
コーヒーカップを片手に、ナギが淡々と返す。
「違う! そうじゃなくて! 僕、もうずいぶん長いこと『旅行』に行ってないなって……」
「……はぁ。潮目さん、先月は北海道で流氷を観測して、先々月は沖縄でサンゴのデータを取りに行ったばかりですよね? 全国各地に出かけてるじゃないですか」
ナギの的確なツッコミに、潮目はぷくーっと頬を膨らませた。
「あれはフィールドワーク! 仕事だろ! 好きで行く旅行とは違うんだよ!」
「そのフィールドワークを、誰よりも好きでやってる人が何を言ってるんですか」
「うぐっ……!」
図星を突かれて言葉に詰まる潮目。まさにその通りだった。
旅がもたらす「負のエントロピー」
「そ、それはそれとして! 旅行が心身に良い影響を与えるっていう、科学的な根拠を見つけたんですよ、ナギ君!」
潮目は気を取り直して、メインスクリーンに古めかしい論文の表紙を映し出した。
「ほう。どんな内容です?」
「キーワードは『エントロピー増大の法則』です! いやはや、素晴らしい。旅という情緒的な行為を、まさか物理法則で説明しようとするなんて!」
興奮気味に早口になる潮目。ナギは冷静に手元の端末を操作する。
This paper is innovatively the first to take the principle as a theoretical basis for assessing how tourism influences human health from a sociomateriality perspective.
(本稿は、社会物質的観点から観光が人間の健康にどのように影響するかを評価するための理論的基礎として、この原理(エントロピー増大の法則)を革新的に初めて採用したものである。)
出典: The Principle of Entropy Increase: A Novel View of How Tourism Influences Human Health : Journal of Travel Research (配信元: SAGE Journals)
「エントロピー……。万物は乱雑な方向に向かう、というアレですね。面白い視点ですが、少し分かりにくいかもしれません」
「えぇー!ロマンがあるじゃないですか!」
「もっと噛み砕いた記事もありますよ。どうやら、アンチエイジングにも関係するようで」
ナギがスクリーンに別のニュース記事を投影する。
Retinol creams may get most of the attention in the fight against visible aging, but researchers at Edith Cowan University (ECU) have pointed to a much bigger and more adventurous possibility: travel.
(レチノールクリームは目に見える老化との戦いで最も注目されるかもしれないが、エディス・コーワン大学(ECU)の研究者たちは、はるかに大きく、より冒険的な可能性、すなわち旅行を指摘している。)
出典: Scientists say travel could slow aging and boost your health : Edith Cowan University (配信元: ScienceDaily)
「レチノールクリームよりすごい!? マジか!」
潮目は画面に釘付けになった。
僕らは旅で、乱雑さから秩序を取り戻す
「つまりこういうことですよ、ナギ君! 僕らの心と体は、閉じられた日常というシステムの中で、時間と共に乱雑さ…すなわちエントロピーが増大していくんです!」
「まぁ、マンネリとかストレスとか、そういうことですよね」
「それが旅に出ることで、僕らは『開放系』になる! 新しい風景、新しい食べ物、新しい出会いという外部からのエネルギーを取り入れて、内部に溜まったエントロピーを排出できるんです! これはもう、生命の再秩序化プロセスですよ!」
「潮目さんのSF的な妄想が始まりましたね」
ナギは呆れたように肩をすくめる。
「要するに、新しい環境からの多様な刺激が、脳の可塑性を高めたり、ストレスホルモンを減少させたりする、というごく自然な話です。それをエントロピーという言葉で表現すると、なんだか壮大に聞こえるというだけで」
「むぅ、現実的なツッコミ……。でも、この考え方、何かに応用できませんかね? 例えば、ラボの観測ドローンを定期的に知らない空域で飛ばしてみるとか。新しい刺激でAIの性能が上がったり……」
「機材に休暇は必要ありません。必要なのは潤沢な予算と定期的なメンテナンスです」
「ぐっ……! 現実が重い……」
ナギの言葉は、いつもながら正しく、そして少しだけ夢がなかった。
フィールドワーク再定義計画
潮目はがっくりと肩を落としたが、すぐに何かを閃いたように顔を上げた。
「……そうだ!」
「今度は何です? どうせまた変なガジェットの開発案でしょう」
「ナギ君。僕が旅行に行けていないんじゃなくて、僕らの認識が間違っていたんですよ」
「はぁ……?」
首を傾げるナギに、潮目は満面の笑みで言い放った。
「僕らがやっている『フィールドワーク』という言葉を、今日から『旅行』という表現に置き換えれば、万事解決じゃないですかね!」
一瞬の沈黙。
やがて、ナギは静かに、しかし深く頷いた。
「……なるほど。それだけで潮目さんのモチベーションが上がり、観測効率が向上するなら、安いものです。採用しましょう」
「やった! よーし、ナギ君! 次の『旅行』の計画を立てましょう! 行先は……そうだ、南米の秘境なんてどうです!?」
「その『旅行』の経費申請書、ボスに見せるのは潮目さんですからね」
ナギの冷静な一言に、潮目の動きがピタリと止まった。ラボには、また静かな冷却ファンの音だけが響き渡るのだった。