減税は未来への投資か、それともただの物欲か?給与明細の絶望から始まる経済成長論
優雅な来訪者と絶望のカップ麺
徹夜明けのラボは、機材と資料の山で足の踏み場もなかった。
窓の外が白み始めた頃、潮目研究員はよろよろと立ち上がり、給湯室へと向かう。手には最後の希望、カップ麺が握られていた。
「はぁ……」
湯を注ぎ、三分待つ間、彼は壁に貼られた給与明細を睨みつけた。総支給額からごっそりと引かれた税金と社会保障費の項目。その数字が、彼の生気を吸い取っていく。
「これさえなければ……もっといろいろな電子工作機器とか、新しい観測ドローンとか買えるのに……」
潮目が抜け殻のようになった、その時だった。
カツン、カツン……。
静寂を切り裂き、廊下から澄んだハイヒールの音が響いてくる。その音は迷いなくラボのドアの前で止まり、静かに開かれた。
「……おはよう、潮目。ずいぶんと侘しい朝食ね」
そこに立っていたのは、ラボトロニカの最高責任者、白波所長その人だった。
最高級のティーセットを優雅に手にした彼女の登場に、潮目は手にしていた割り箸を落とした。
「しょ、所長!? なぜここに!?」
「あなたの朝食より、ずっと目が覚めるものを持ってきたのよ」
ナギが無言で現れ、潮目のデスク上のガラクタを手際よく片付けていく。その上に所長は純白のテーブルクロスを敷き、ダージリンの香りを漂わせた。
税金という名の絶望と、希望のデータ
湯気の向こうで妖艶に微笑む所長は、一枚のデータファイルを潮目の前に滑らせる。
「あなたの個人的な納税額への不満は聞き飽きたわ。もっとスケールの大きな話よ。これを見なさい」
潮目は恐る恐るタブレットを手に取った。
The result shows that the key drivers of startup attraction are corporate tax rate, economic growth, and safety; enhancing these indicators directly increases startups’ QOB, business partners, and residents’ QOL.
(その結果、スタートアップ誘致の主な要因は法人税率、経済成長、安全性であり、これらの指標を高めることがスタートアップのQOB(事業の質)、ビジネスパートナー、そして住民のQOL(生活の質)を直接的に向上させることが示された。)
出典: Startup-Driven Air-Front Smart City Policy Evaluation Using Integrated Accessibility Index: A Case Study of Aichi, Singapore, and Munich : Smart Cities (配信元: MDPI)
「こ、これは! やっぱりそうじゃないですか! 法人税率が低いとスタートアップが集まるって!」
潮目の目に、希望の光が宿る。
「つまり減税は正義! 全般的に減税して景気を良くすれば、僕みたいな人間も潤って、結果的に国も豊かになるんですよ!」
「潮目さん、少し落ち着いてください。話はそれほど単純ではありません」
いつの間にか背後に立っていたナギが、すっと別のデータを表示させた。
Startup-related policies in smart cities should not be driven by technology alone. Our findings show that startups respond to a complex system in which institutional and regulatory conditions, accessibility, and QOL are closely interrelated.
出典: A research team has developed a quantitative policy evaluation framework for assessing how cities can attract startups while maintaining high living standards. : 豊橋技術科学大学 (配信元: Phys.org)
「ナギ君!?」
「こちらの補足情報によれば、制度やQOL、つまり生活の質も密接に関係している、と。単純な減税だけでは不十分だということですね」
財源論は思考停止の呪文か?
「いや、でも一番のドライバーは税率だって書いてあるじゃないか! QOLだって結局、経済が成長しないと向上しないでしょ?」
潮目は興奮気味に反論する。
「ですが、減税するなら財源はどうするんですか?という話に必ずなりますよ。社会保障やインフラ維持にもコストはかかります」
ナギの冷静な指摘に、潮目は待ってましたとばかりに声を大にした。
「出た! それだよナギ君! その『減税するなら財源を示せ』ってのが、阿呆の極みなんだ!」
「……阿呆、ですか」
「そう! 思考停止の呪文だよ! 減税して、企業や個人の活動が活発になって、経済全体が成長すれば、結果的に税収は増えるんだ! ニワトリが先かタマゴが先かの話で、まずはタマゴを産むためのエサ、つまり先行投資としての減税が必要なんだって!」
熱弁を振るう潮目を、白波所長が面白いものを見るように眺めている。
「……潮目の言うことも一理あるわね」
「えっ、所長!?」
「成長の果実を分配するのか、それとも成長のためにまず種を蒔くのか。今の日本に足りていないのは、後者の視点かもしれないわ。スマートシティ政策も同じよ。最新技術を並べただけの箱モノに、創造的な人間は集まらない。税金が高くて、未来に希望が持てない場所に住みたいと思うかしら?」
所長はカップを置き、潮目を真っ直ぐに見つめた。
「結局は人よ。そこで『生きたい』『挑戦したい』と思える魅力、つまりQOLが根底にある。そのための環境を整えるのが政治の役割。減税も、そのための強力なカードの一つに過ぎないわ」
未来への先行投資
議論をまとめ上げた所長は、静かに立ち上がった。
その表情は、いつものようにクールだ。しかし、その瞳にはどこか楽しげな色が浮かんでいるように見えた。
「……そうね。あなたの言う通り、まずは投資が先ね」
「え?」
「ラボの発展のため、そしてあなたのQOL向上のためよ」
所長はふわりと微笑むと、信じられない言葉を口にした。
「あなたが欲しがっていた最新のオシロスコープ、稟議は下ろしてあげたわ。それで未来への投資をしなさい」
「ほ、本当ですか!? やったー!」
歓喜の声を上げて飛び跳ねる潮目。
その横で、ナギが静かにつぶやいた。
「結局、物欲がドライバーだったわけですね……」
紅茶の香りを残し、白波所長は嵐のように去っていった。
デスクの上には、手付かずのカップ麺と、承認済みの稟議書だけが残されていた。