過去の悪夢を書き換える回路
脳裏にこびりつく「あの声」
ラボの片隅で、潮目がコーヒーカップを片手にぼんやりと窓の外を眺めている。
雨粒が窓ガラスを伝い、まるで過去の記憶のように滲んでいく。
「今日の天気は気分が沈みますね。こういう日は、どうしても嫌な記憶が蘇ってきてしまうんですよね……」
隣で、ナギが黙々とタブレット端末の画面を拭いている。
「また感傷に浸っていますか? 潮目さん」
「だってさナギ君。人間って、一度こびりついた嫌な記憶って、どうやっても消せないじゃないですか。トラウマとか、PTSDとか……。あれ、どうにかならないものかなって」
ナギはため息をつき、タブレットを潮目の方へ向けた。
「そういう思考こそ、データで分析すべきではありませんか。ちょうど良いものがありますよ」
「え? なになに?」
記憶の再フォーマット回路
A neuromodulatory circuit-to-molecular pathway for reformatting aversive memories during recall
出典: Neuron, DOI: 10.1016/j.neuron.2026.01.006
「『嫌悪記憶の再フォーマット回路』……? なんだかSF映画みたいですね! これは、夢の内容を書き換えられるってことですか? それとも、脳の中で勝手にハッピーエンドに編集してくれるとか!」
潮目が目を輝かせる。
本研究は、記憶の再固定化を制御する脳の回路から受容体、そして核内シグナルへと至る一連の仕組みを初めて包括的に示すものです。本研究の成果は、PTSDや不安障害のように嫌悪記憶が過度に強く、持続的に形成される疾患の理解と治療法開発に大きく貢献すると期待されます。
出典: 理化学研究所 嫌悪記憶の再固定化のメカニズムを発見
「SFではないですね。理化学研究所の発表によると、この研究は記憶が呼び起こされた時に、その記憶を再固定化するプロセスを操作する脳の仕組みを解明した、ということです」
「つまり、嫌な記憶そのものを消すのではなく...」
「その記憶が再び強化されるのを防ぐ、あるいは書き換える可能性を示唆しているんです」
「なるほど! じゃあ、あの嫌な体験をした時の『恐怖』だけを薄めることができるかもしれない、ってことですか! いやはや、素晴らしいデータです!」
潮目は興奮して身を乗り出す。
「 これなら、あの時の『あの影』も、もう怖くなくなるかもしれません!」
「影?」
ナギが訝しむ。
恐怖を薄める青い信号
「ただ、潮目さん。あなたの仰る『影』の恐怖を薄めるには、もう少し詳細なメカニズムの理解が必要です」
ナギはタブレットを操作し、更にデータを表示させる。
「この研究で鍵となっているのが、脳幹にある『青斑核』という部分です。ここの神経伝達物質の働きが、嫌悪記憶の再固定化に深く関わっているようです」
「青斑核……? 青い色をしているから、青斑核なんですか? なんか、ロマンチックですね! まるで、夜空に輝く星雲みたいだ」
「ロマンチックではありません」
そういう表現する人、初めて見たなと、密かに呟くナギ。
「むしろこの青斑核から分泌されるノルアドレナリンという物質が、記憶の定着、特に情動的な記憶、つまり恐怖や不安といった感情と結びついた記憶の強化に深く関わっている、という指摘があるんです」
「そうなんですか? 僕、もっとこう、脳の奥底から湧き上がる『安心感』みたいなものが、記憶を書き換えるのかと思ってました!」
「安心感も、ある意味では青斑核からの信号かもしれませんが、この研究が示唆しているのは、記憶の呼び出し時に、その嫌悪記憶を『脆弱な状態』にし、そこに異なる信号を送り込むことで、記憶の再固定化のプロセスを『再フォーマット』するというメカニズムです。まさに、情報更新のようなものですね」
「情報更新……! それはつまり、バグを修正するようなものですか? あの嫌な記憶というプログラムのバグを直す!」
「バグと言うよりは不正データ除去とか再構築みたいな感じでしょうか。この回路をうまく利用できれば、PTSDのような疾患の治療に繋がる可能性は非常に高いと期待されています」
「すごい! じゃあ、僕が最近よく見る、あの『監視カメラに映る謎の影』の夢も、もっと可愛らしい『監視カメラに映る癒やしの猫』に書き換えられるってことですかね!」
「それは、あなたの個人的な夢の内容によるかと……。しかし理論上は、嫌悪的な記憶の『情動的な側面』を弱めることは可能でしょう」
「うわー! もし本当にそうなったら、僕、毎晩ぐっすり眠れますよ! いやはや、本当に、データと風景のあいだ、ってこういうことなんですね! 脳という風景の中に、こんな回路があるなんて!」
悪夢は、まだ終わらない
潮目が興奮して立ち上がろうとした、その時。
「潮目さん」
ナギの声が、静かに響いた。
「何ですか、ナギ君?」
「その『影』の夢についてですが、ラボの監視カメラの記録を解析したところ、あなたの足元を這っていたのは、ただのホコリでしたよ」
「……え?」
潮目がきょとんとしながら、自分の足元を見た。
確かに床には薄っすらとホコリが積もっている。
「それに、青斑核のノルアドレナリンが関わるのは、あくまで『嫌悪記憶』の再固定化です。あなたの『癒やしの猫』の夢をこの回路で書き換えるのは、少し目的が違うかもしれませんね」
「……そ、そうですよね……。僕の夢は、悪夢じゃなかった……いや、悪夢だったけど、ホコリのせいだった……。なんていうか、壮大な話をしてたら、足元がすくわれました」
潮目は力なく椅子に座り直した。
「まあ、でも、この研究は間違いなく、未来の治療法に繋がるはずです。悪夢に苦しむ人々にとっては、希望の光になるでしょう」
ナギは静かに頷いた。
ラボの窓の外では、雨が上がり、薄明かりが差し込み始めていた。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花...」