鎮火のあと、灰の下で燻るもの
静寂に落ちた雫
ラボに響くのは、サーバーの静かな駆動音と、潮目がドリップコーヒーを淹れる音だけだった。
湯気が立ち上るマグカップを手に、彼は窓の外に広がる街並みをぼんやりと眺めていた。
「そういえばナギ君、少し前に国内であった大規模な山火事、覚えてますか」
「ええ。連日報道されていましたね。鎮火活動は完了し、今はもう誰も話題にしていませんが」
「ですよね。鎮火すれば一件落…のはずなんですけど」
言いながら、彼は自分のデスクに戻ろうとして、見事に電源ケーブルに足を引っかけた。ガシャン、と派手な音を立ててマグカップが床に転がる。
「だから言ったじゃないですか。そのケーブルは床に這わせるなと。幸い、中身は空でしたが」
「うわっ!あっぶな…!いやはや、すみません。でも、空じゃなくて今淹れたばかりの…あれ?」
「私が先ほど回収しました。潮目さんが躓く未来が観測できましたので」
冷静に告げるナギの手には、湯気の立つ潮目のマグカップが握られていた。潮目は苦笑いを浮かべながらデスクのモニターに目を向け、そこで動きを止めた。
「…ナギ君、これ」
彼の声のトーンが、数秒前までのドジなそれとは全く違うものに変わっていた。
灰の下に眠るデータ
モニターに映し出されていたのは、海外の環境科学ジャーナルに掲載された、一枚の地味なグラフだった。
「山火事って、鎮火して終わりじゃないのかもしれない…いや、終わらないんですよ、絶対に!」
「落ち着いてください、潮目さん。また早口になっています」
「だってこれを見てください!このデータ、ヤバいですよ!」
ナギが潮目の隣に立ち、モニターを覗き込む。そこに表示されていたのは、山火事後の水質に関する論文のアブストラクトだった。
We observed that post-wildfire peak values reached 1142 mg/L for total suspended solids (TSS), ∼145 NTU for turbidity, 6.28 mg/L for nitrate, 31.08 mg/L for TOC, 325 μS/cm for electrical conductivity (EC), and 116 mg/L for trace metals such as zinc, with elevated levels often persisting over five years.
(我々は、山火事後のピーク値が、総懸濁物質(TSS)で1142 mg/L、濁度で約145 NTU、硝酸塩で6.28 mg/L、全有機炭素(TOC)で31.08 mg/L、電気伝導率(EC)で325 μS/cm、亜鉛などの微量金属で116 mg/Lに達し、その高いレベルが5年以上にわたって持続することも多いことを観測した。)
出典: A critical review on the impacts of wildfire on surface water quality : Science of The Total Environment
「5年以上ですよ!5年!火が消えたあとも、土壌と水系は汚染され続けてるってことじゃないですか!」
「…その通りですね。そして問題は、それが人々の意識から消え去った後も続くという点です。こちらの記事も合わせてどうぞ」
ナギは手元のタブレットを操作し、別のニュース記事をモニターに転送した。
If governments treat wildfire only as an emergency response problem, they will miss what happens before and long after the flames. They will also miss opportunities to reduce long-term contamination of drinking water.
(もし政府が山火事を緊急対応の問題としてのみ扱うなら、彼らは炎の前後に起こる出来事を見逃すことになるだろう。また、飲料水の長期的な汚染を減らす機会も逸するだろう。)
出典: After the flames: How wildfires can pollute drinking water for years : Phys.org
「うわ…まさにだ。緊急事態が終われば、忘れ去られる。でも、自然の中では何も終わっていない…」
彼はゴクリと唾を飲んだ。
見えざる火種
ラボは再び静寂に包まれた。潮目は椅子に深く腰掛け、天井を仰いだ。
「この微量金属や有機炭素の汚染が、もし日本のあの山の水源地に流れ込んでいたら…」
「数年かけてゆっくりと下流に到達し、ある日突然、原因不明の水質悪化として観測されるかもしれませんね」
「原因不明…そう、そこですよ!山火事のことは、その頃にはみんなすっかり忘れてる」
彼は勢いよく立ち上がった。
「待ってください。最近、日本でちょっとした論争になっている問題がありますよね。土葬に関する…」
「…ええ。いまのところ一部地域ですが、衛生面や土地の問題から議論が起きています」
「もし、原因不明の土壌汚染や水質汚染が見つかったら?人々は何を疑うと思いますか?」
ナギの無機質な瞳が、わずかに揺れたように見えた。
「…なるほど。彼らは、この科学情報を根拠に、土葬が原因ではないとして反論するでしょうね」
「そう!『土葬ではなく山火事のせいで土地が汚染されたんだ!』って」
「土葬地域に山火事が連発する未来も、そう遠くないかも知れません」
「無許可で土葬した地域で水質汚染が見つかりそうになると、謎の山火事が起きる。彼らは水質汚染を山火事のせいにして、土葬を続ける。残るのは汚染に苦しむ住民だけ」
潮目の言葉に、部屋の温度が数度下がったような気がした。
「これはもしかして…未来から来た何者かが、過去の社会を分断させるために仕組んだ壮大な陰謀なんじゃ…!」
「ありえません。人間の愚かさを説明するのに、SF的な陰謀論は必要ありませんよ、潮目さん」
ナギの冷静なツッコミが、潮目の暴走した想像を現実へと引き戻した。
街の灯りと沈黙
二人は言葉を失い、再び窓の外に広がる夜景を見つめた。
煌々と輝く無数の街の灯り。その一つ一つに、人々の営みがある。
「火は消えても、燻り続ける『火種』があるんですね…僕たちの知らない、社会の足元で」
彼の声は、わずかに震えていた。
「そして、その火種に油を注ぐのは、いつだって善意や正義を振りかざす人々です」
静かだが、刃物のように鋭いナギの言葉が潮目の胸に突き刺さる。彼はゾッとして、思わず自分の腕をさすった。
ふわりと、肩に温かいブランケットがかけられる。
「風邪をひきますよ。私たちの観測は、まだ始まったばかりなんですから」
ナギはそう言うと、潮目の空になったマグカップを手に、静かに給湯室へと消えていった。
残された潮目は、窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、これから訪れるかもしれない、より深く、静かな混乱の始まりを予感していた。