偏食家イモムシの生存戦略、温暖化と植物の多様性が織りなす「食卓」の謎
庭先の小さな戦争
潮目の悩みごとは、育てている果樹にイモムシなどがつくことだった。
カミキリムシの幼虫に比べたら可愛いものだが、葉を丹念に裏返しては見つけ、駆除するという作業が面倒なことにかわらない。
「うーん、またやられてる……」
ラボの片隅にある小さな庭で、潮目はレモンの木の葉についたアゲハの幼虫を箸でつまみながら、ため息をついた。
「どうして君たちは、このレモンの葉っぱだけを食べるんですかね」
「潮目さん。そのイモムシに話しかけても、おそらく言語での返答は期待できません」
背後から呆れたような声がする。助手のナギが、冷たい麦茶の入ったグラスを片手に立っていた。
「ナギ君! いやあ、彼らの気持ちが分かれば、もっと平和的な解決策があるかと思ってさ。たとえば『こっちの山椒の葉のほうが美味しいぞ』とか、交渉できるじゃないですか」
「交渉ですか。それより、彼らがなぜ特定の植物しか食べないのか、その食性に関するデータならありますよ」
ナギはそう言って、持っていたタブレットの画面を潮目に見せた。
蝶の幼虫、その「好き嫌い」の法則
「へえ、イモムシの食性データ? 面白そうじゃないですか」
潮目が画面を覗き込むと、そこには専門的な論文の一部が表示されていた。
Diet breadth showed a negative relationship with plant family richness, but this was offset by a direct effect of temperature acting in the opposite direction. Islands generally harbor species with broader diets, but islands with higher endemism had narrower diets than average.
(食性の幅は植物の科の豊富さと負の関係を示したが、これは逆方向に作用する温度の直接的な効果によって相殺された。島々は一般的に、より広い食性を持つ種を擁しているが、固有性の高い島では平均よりも食性が狭かった。)
出典: Climate and regional plant richness drive diet specialization in butterfly caterpillars : Nat Commun (配信元: nature.com)
「なるほど……。植物の種類が豊かな場所ほど、イモムシは偏食になる、と。逆になんでも食べる雑食性のやつは、植物が少ない環境にいるってことか」
潮目の目が、知的な探究心で輝き始めた。
「でも、ナギ君! 気になる一文がありますよ。『逆方向に作用する温度の直接的な効果によって相殺された』……これって、気温が上がると好き嫌いがなくなるってことじゃないですか!?」
「その解釈で合っています」
「大変だ! 地球温暖化が進むと、グルメだったイモムシたちが雑食になって、うちのレモンだけじゃなく、隣のブルーベリーまで食べ尽くしちゃうかもしれない!」
「落ち着いてください、潮目さん。その結論は少し早計です。こちらの補足記事をどうぞ」
ナギは冷静に画面をスワイプし、別のニュース記事を表示した。
Even though heat forces caterpillars to be less restrictive, the massive variety of local plants has a much stronger impact, which is why tropical regions still end up hosting the pickiest caterpillars.
(高温はイモムシの選り好みを減らすが、地域の植物の多様性の影響の方がはるかに強く、結果的に熱帯地域には好き嫌いの激しいイモムシが多くなる。)
出典: Plant diversity makes caterpillars fussy about their food : Phys.org (配信元: Phys.org)
植物と昆虫の「声なき対話」
「……ああ、そういうことか!」
潮目は安堵のため息をついた。
「温度が上がって雑食化する力よりも、植物の多様性が偏食にさせる力の方が強い。だから、植物がたくさんある熱帯のイモムシは、結局『超グルメ』なままってことなんですね」
「ええ。温暖化が直ちに、あなたの庭の悲劇に繋がるわけではなさそうです」
「いやはや、安心しました。でも、不思議ですよね。なんで植物の種類が多いと、イモムシは偏食になるんだろう」
潮目は腕を組んで考え込む。
「これは……植物側がイモムシを『教育』しているんですよ! 無数の植物が『私を食べられるのは、選ばれし者だけだ』みたいな特殊な電波を発していて、イモムシはそれを受信して……」
「潮目さん、SF的な仮説はそのくらいに」
ナギがピシャリと遮った。
「単純な化学防御と共進化の結果と考えるのが妥当です。植物は特定の毒を持ち、その毒に耐性を持つイモムシだけがその葉を食べられる。選択肢が多ければ多いほど、特殊な進化を遂げた『専門家』が生き残りやすい、というわけです」
「なるほど、化学物質か……。毒ねえ。でも、その毒のパターン、つまり植物の『声』を解析できたら……すごいことができそうじゃないですか?」
潮目の目が再びキラキラと輝きだす。
「もしこのメカニズムをラボトロニカの観測機材に応用できたら? 例えば、植物が発する化学信号を模倣して『このレモンの葉は猛毒だぞ』とイモムシにだけ聞こえるニセ情報を流すスプレーとか!」
「情報撹乱による害虫忌避剤ですか。特定の種にしか効果がないでしょうが、面白いアプローチですね。農薬を使わない新しい農業に繋がるかもしれません」
珍しくナギもそのアイデアに少しだけ興味を示したようだ。
沈黙の食卓で
「結局、僕らが必死に駆除しようとしてるこのイモムシも、何億年も続く壮大な自然の食卓で、ただ好き嫌いをしながら生きているだけなんですよね……」
潮目は、箸の先でつまんでいたイモムシを、そっと隣の山椒の植木鉢に移した。
そのイモムシは、アゲハの幼虫。レモンと同じミカン科の山椒も、彼らにとってはごちそうのはずだ。
「ええ。潮目さんの庭のレモンも、彼らにとっては三ツ星レストランのスペシャリテなのかもしれません」
ナギが、静かな声で言った。
ラボの小さな庭に、西日が差し込んでいる。二人は言葉もなく、小さな命が新しい葉を食むのを、ただ静かに見つめていた。
植物と昆虫が繰り広げる、声なき対話。その壮大な風景の前では、人間の悩みなど些細なものに思えた。