逆説のトリガー:「がん」を抑制するはずの細胞が、牙を剥くとき
ガーン、と心に響く音
癌。
ガーン、なんていう太古のギャグを、潮目は静かなラボでひとり呟いていた。潮目が敬愛する、潮の満ち引きをテーマに小説を書く作家が、癌で逝去したというニュースが流れてきたからだ。
キーボードを打つ指が、ぴたりと止まる。モニターに映る無数のデータが、急に色を失って見えた。
「潮目さん、またケーブル踏んでますよ。ディスプレイが点滅しています」
背後から、淡々としたナギの声がした。いつもの的確なツッコミも、今日の潮目の心には深く刺さらない。
「……そっか。ごめん、ナギ君」
「いえ。それより、手が止まっているようですが。何か気になるデータでも?」
ナギの問いに、潮目は力なく首を振った。
カバがハエに腫瘍を…?
「ちょっと、関係のある論文を探してたんだ。……なんだこれ」
潮目が見つめるモニターに、ひとつの英語タイトルが浮かび上がっていた。
「The Hippo tumor suppressor pathway triggers non-cell autonomous tumorigenesis in Drosophila……ヒッポ? カバか!?」
急に潮目の目に、いつもの輝きが戻る。
「カバの腫瘍抑制経路が、ハエに腫瘍形成を……!? まさか異種間で癌を誘発するウイルス的な何かが!?」
「落ち着いてください、潮目さん」
すかさずナギが隣のコンソールを操作する。
「そのDOI、とっくに解析済みです。Hippoはただの経路名で、カバは関係ありません。むしろ、本質はもっと根深いですよ」
Title: The Hippo tumor suppressor pathway triggers non-cell autonomous tumorigenesis in Drosophila
出典: The Hippo tumor suppressor pathway triggers non-cell autonomous tumorigenesis in Drosophila : EMBO Reports (配信元: EMBO Reports) (DOI: https://doi.org/10.1038/s44319-026-00778-5)
ナギが潮目のモニターに、解析結果のサマリーを転送する。そこには、驚くべき日本語のテキストが表示されていた。
ショウジョウバエ上皮組織において、腫瘍(*1)抑制経路として知られるHippo経路が腫瘍の形成を誘導することを発見しました。本研究によって、Hippo経路による腫瘍形成を誘導するメカニズムの一端が明らかとなったことで、新たながん治療戦略の提案に貢献できます。
出典: 【研究成果】がんを抑制するはずのシステムががんの発生を誘導する! ―細胞間コミュニケーションの新たな仕組みを解明し、がん治療戦略の提案に貢献― : 広島大学 (配信元: 大学公式ウェブサイト) (https://www.hiroshima-u.ac.jp/news/97253)
「……え? 腫瘍を『抑制』するはずの経路が、『誘導』する?」
潮目は呆然とテキストを読み返した。
「どういうことなんだ、ナギ君。まるで裏切り者じゃないか……!」
細胞たちの裏切りとコミュニケーション
「裏切り者、ですか。面白い表現ですね」
ナギは珍しく潮目の言葉に乗ってきた。
「本来は体を守るはずの警察官が、犯罪組織と手を組むようなものですよね。生命は一筋縄ではいきません」
「でも、なぜそんなことが起きるんだ? 内部にスパイでもいたのか!?」
潮目の妄想が再び加速する。
「そうだ! このメカニズムを応用すれば、裏切り者を検知するシステムが作れるぞ! ラボトロニカの機材を盗もうとする産業スパイを、入館ゲートで自動的に検知するんだ!」
「……それはただの高度な生体認証では? 話を戻しますよ」
ナギはため息をつき、冷静に軌道修正する。
「重要なのは『細胞間コミュニケーション』です。Hippo経路が異常を起こした細胞が、周囲の正常な細胞に『お前も悪になれ』と信号を送って、腫瘍を形成させているんです」
「悪の勧誘か……。なんて迷惑な奴らなんだ」
「ええ。ですが、この『勧誘』の仕組みを解明できれば、逆にそれをブロックしたり、偽の信号を送って自滅させたりできるかもしれません」
「なるほど! 細胞間のネットワークをハッキングするわけか! もしこの通信プロトコルを解析して、ラボの観測ドローンに応用できたら……」
潮目の目は、完全にいつもの研究者のものに戻っていた。
「ドローン同士が自律的に連携して、最適なフォーメーションでデータを収集する『群制御システム』が完成するかもしれない! すごいぞ、ナギ君!」
ひとつの希望
すっかり元気を取り戻した潮目は、窓の外に広がる夕焼けを眺めていた。
「でも、そっか……。がん細胞も、必死にコミュニケーションを取りながら、生きようとしてるんだよな……」
亡くなった作家のことを思い出したのか、潮目の声が少しだけ湿っぽくなる。感傷的な空気が、ラボを静かに満たした。
その沈黙を破ったのは、ナギだった。
「ええ。ですが、治療しなければ患者さんの命が危ない。まさに『一刻を争う』…」
ナギはそこで一度言葉を切り、静かに続けた。
「……いえ、『一"がん"を争う』状況ですね」
「……え?」
潮目は自分の耳を疑った。ゆっくりとナギの方を振り返ると、そこにはいつもと変わらない涼しい顔で、モニターを見つめる助手の姿があった。
ラボに、潮目の間の抜けた声と、キーボードを叩く乾いた音だけが響いていた。
「ナギ君。ギャグ苦手?」
「……すみません」