蚊との最終戦争? テック企業が放つ「6400万匹の刺客」が変える未来
庭と蚊と、デング熱の記憶
2014年ごろ、東京都内でデング熱が発生したことがあった。潮目も庭木の水やりをしていると蚊に襲われることが多い。今日も例外ではなかった。
「うわーっ!痒い!ナギ君、見てくれよこの腕!」
ラボに駆け込んできた潮目は、半袖からのぞく腕をボリボリと掻きむしっている。見事なまでに、いくつもの赤い膨らみができていた。
「また庭で無防備に水を撒いていたんですね。虫除けスプレーは、ラボの備品リストに入れておきましたよ」
ナギはサーバーのコンソールを眺めながら、淡々と告げた。
「ありがとう…でも本当に、日本の夏は蚊との戦いだよな。昔、都内でデング熱が流行った時も大騒ぎだったじゃないか」
「2014年の代々木公園を震源としたアウトブレイクですね。確かに、あれ以来、蚊に対する警戒レベルは社会全体で上がりました」
「だよな!あの小さな体に、とんでもない脅威を秘めてるんだから…。ん?このデータは…まさか」
潮目の視線が、ふとモニターに表示された世界地図のホットスポットに釘付けになった。
カリフォルニアの静かなる危機
「ナギ君、これを見てください!僕らが蚊と戦ってる間に、海の向こうでも大変なことになってますよ!」
興奮気味の潮目が指差す画面には、ある論文の要旨が表示されていた。
Approximately 18.2 million (95% CI: 17.9–18.3) California residents—primarily in the Central Valley and the Los Angeles and San Diego metropolitan areas—currently live in areas where peak monthly dengue risk exceeds levels estimated during observed local transmission. Under moderate scenarios of climate warming and urban expansion, an additional 4.1 million (95% CI: 3.7–4.6) residents may be at risk by mid-century.
(およそ1820万人(95%信頼区間: 1790万~1830万人)のカリフォルニア州住民(主にセントラル・バレー、ロサンゼルス、サンディエゴ都市圏)が、現在、観測された地域内感染時に推定されたレベルを超える月間デング熱リスクのピークを迎える地域に住んでいる。気候温暖化と都市拡大の中程度のシナリオの下では、今世紀半ばまでにさらに410万人(95%信頼区間: 370万~460万人)の住民がリスクに晒される可能性がある。)
出典: Estimating current and future dengue risk in California : The Lancet Regional Health—Americas (配信元: The Lancet)
「1820万人!?今世紀半ばにはさらに410万人がリスクに…これ、もうSF映画で見るパンデミックの序章じゃないですか!」
「気候変動の影響は無視できませんから。ですが潮目さん、その問題に対して、いかにもシリコンバレーらしい解決策が検討されていますよ」
ナギは冷静にキーボードを数回叩き、別のニュース記事をディスプレイに映し出した。
This is not science fiction or some perverse prank. A Silicon Valley tech giant is seeking federal approval to release up to 64 million sterilized male mosquitoes in California and Florida over the next two years.
(これはサイエンス・フィクションでも、悪趣味ないたずらでもない。シリコンバレーの巨大テック企業が、今後2年間で最大6400万匹の不妊化されたオスの蚊をカリフォルニアとフロリダに放出するため、連邦政府の承認を求めている。)
出典: Dengue fever no longer a far-off threat? Google wants to unleash army of sterile mosquitoes this summer : Phys.org (配信元: Phys.org)
「ろ、6400万匹の…不妊化されたオス蚊!?しかもテックジャイアントが!?」
潮目は開いた口が塞がらない。
生物兵器か、救世主か
「これはもう、人類による蚊への宣戦布告ですよ!ステルス戦闘機ならぬ、ステルス蚊を放って敵を内部から崩壊させるなんて…まさに最終戦争(ハルマゲドン)です!」
「また大袈裟ですね。これは不妊虫放飼法といって、放射線などで不妊化したオスを大量に放ち、野生のメスと交尾させることで次世代の個体数を減らす、比較的古くからある生物的防除の応用ですよ」
ナギの冷静な解説に、潮目は少し落ち着きを取り戻す。
「そ、そうなのか。でもすごい発想だよな。人を刺すのはメスだけだっけ?」
「その通りです。産卵のための栄養が必要なメスだけが吸血します。なので、不妊のオスを大量に放っても、人間が直接刺される機会は増えません。むしろ、次世代が生まれないので、結果的に個体数が減っていくわけです」
「なるほど…!生態系への影響は最小限に、特定の種だけを狙い撃ちできるわけか。いやはや、素晴らしいデータです」
潮目の目が、再び少年のように輝き始めた。
「もし、この技術を僕らの観測に応用できたらどうなるかな?例えば、ラボ周辺の特定の観測妨害昆虫だけをピンポイントで排除して、もっとクリーンなデータを集めるとか!」
「アリですね。特定の植物につくアブラムシを減らして、純粋な植物の成長データを記録したり。あるいは、マーカー遺伝子を組み込んだ蚊を放って、その拡散状況から微細な風の流れや生物の移動を追跡する、なんてことも…」
「それだ!夢が広がりますね、ナギ君!」
二人の妄想は、カリフォルニアの空を越えて、まだ見ぬ観測フィールドへと飛んでいく。
まずは、この庭から
「…いや、でもさ」
ひとしきり盛り上がった後、潮目は真剣な顔で呟いた。
「僕らが今、まずやるべきことがある気がする」
「はい。溜まっている観測レポートの提出ですね」
ナギが即答する。
「違う!」
潮目は力強く首を横に振った。
「まずは、僕の庭だ!世界の生態系を救う前に、我が家のささやかな平和を取り戻さなければ!」
彼は握りこぶしを作り、本気で自宅の庭から蚊を駆逐する計画を練り始めた。その燃えるような瞳を見て、ナギは静かに、そして深いため息をつく。
しかし、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。身近で厄介な問題に、最新の知見とテクノロジーで本気で立ち向かう。それは、ナギにとっても少し胸が躍るミッションに違いなかった。