空気からパンを創った男たちの光と影、そして太陽が拓く未来
発明家が見た夢の果て
深夜のラボは、観測機器の微かな電子音だけが響いていた。
その静寂の中、潮目は大型モニターの前でヘッドホンを外し、深いため息をついた。画面には、あるドキュメンタリーのエンドロールが静かに流れている。
その物語は、ハーバー・ボッシュ法という、空気中の窒素からアンモニアを合成する技術を確立した二人の科学者の、その後の運命を追ったものだった。
潮目の興味を強く引いたのは、その偉大な功績の裏にあった光と影。世界を飢餓から救う「空気からパンを作る」技術は、同時に爆薬の大量生産を可能にし、戦争の歴史を大きく変えてしまった。
偉大な技術の実用化に貢献した人のその後が、必ずしも幸せとは言えない。そんなやるせない事実に、潮目はなんだかなあ、と胸の奥が重くなるのを感じていた。
「潮目さん、どうかしましたか」
背後から、マグカップを差し出すナギの声がした。いつの間にか隣に立っていたようだ。
「ナギ君か……。いやね、ハーバー・ボッシュ法のドキュメンタリーを見てたんだ。偉大な発明だけど、開発者当人が幸せになるとは限らないんだなあって思ってね」
「フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュですか。確かに、光と影の強い人物たちですね」
ナギは静かに頷き、自分のマグカップを口に運んだ。
歴史を塗り替える光
「そうなんだよ。あの技術がなければ、今頃世界の食糧生産の半分は成り立たないかもしれない。それなのに、開発者は……」
言葉を濁す潮目に、ナギは手にしていたタブレットの画面を点灯させた。
「感傷に浸っているところ申し訳ありませんが、その歴史的な発明を、過去のものにするかもしれない観測データがあります」
「えっ?」
ナギが差し出した画面には、化学式の並んだ論文が映し出されていた。
F-functionalization optimally balances N2 activation, proton availability at Fe active sites, and excited-state lifetimes, boosting NH3 production by ∼ 60% relative to unmodified MIL-101(Fe).
(フッ素(F)による官能基化は、N2の活性化、Fe活性サイトでのプロトン利用可能性、および励起状態寿命を最適にバランスさせ、未修飾のMIL-101(Fe)と比較してNH3生成を約60%向上させる。)
出典: Ligand-Functionalized MIL-101(Fe) MOFs Uncovering Structure-Activity Relationships for Solar-Driven NH3 Synthesis : Journal of the American Chemical Society (配信元: ACS Publications)
「フッ素……NH3……アンモニア生成が60%向上!? しかもこれ、Solar-Drivenって書いてある! 太陽光でってことかい!?」
潮目の声が、静かなラボに響き渡った。
「はい。高温高圧を必要とするハーバー・ボッシュ法とは根本的にアプローチが異なります。そもそも、ハーバー・ボッシュ法がどれだけ重要かというデータも改めて確認しておきましょう」
ナギは冷静に、もう一つのウィンドウを開いた。
Today, roughly half of the world's food production depends on fertilizers derived from ammonia, making the Haber-Bosch process one of the most important industrial innovations in human history.
(今日、世界の食糧生産のおよそ半分はアンモニア由来の肥料に依存しており、ハーバー・ボッシュ法は人類史上最も重要な産業技術革新の一つとなっている。)
出典: Sunlight, water, air and metal-organic catalysts—that could be all it takes : TU Wien (配信元: Phys.org)
「世界の食糧生産の半分……。いやはや、改めて見るととんでもない技術だ。それを、太陽の光だけで、しかも効率的にやろうっていうのか……!」
潮目はタブレットを食い入るように見つめ、すっかり先ほどの感傷的な気分は吹き飛んでいた。
鉄とフッ素が紡ぐ、平和の錬金術
「これぞ現代の錬金術じゃないか、ナギ君! 巨大な化学プラントも、膨大なエネルギーもいらない。太陽と水と空気、それに特殊な触媒さえあれば、どこでも肥料が作れるってことだろ!?」
潮目は興奮して立ち上がり、ラボの中を歩き回り始めた。
「まるでSFの世界だ! アフリカの砂漠の真ん中に、この触媒を敷き詰めたパネルを置くだけで、緑豊かな農地が生まれるかもしれない!」
「理論上は、ですね。ただ、触媒の耐久性やスケールアップにはまだ課題が山積しています。それに、これは錬金術ではなく、光触媒による化学反応です」
ナギの冷静なツッコミも、今の潮目の耳には届かない。
「いや、これは錬金術だよ! しかも、ハーバーやボッシュが苦しんだような影を生まない、平和の錬金術だ! 高温高圧のプラントが不要なら、爆薬製造への転用リスクもぐっと減る。純粋に、食糧を生み出すためだけの技術になりうる!」
「……その発想は悪くないかもしれませんね」
「だろ!? しかも、このFe active sitesってのがいい! 鉄だよ、鉄! どこにでもある金属が、フッ素っていう魔法の粉を振りかけられることで世界を救うなんて、ロマンがありすぎる!」
潮目は両手を広げ、まるで自分が世界を救う発明家になったかのように熱弁をふるった。
「もしこの光触媒のメカニズムを、僕たちの観測ドローンに応用できたらどうなる? 大気中の成分を分析しながら、その場でエネルギー源を生成する自己完結型のドローンが……!」
「また予算を燃やす気ですか。ボスに請求書を見せる私の身にもなってください」
ナギの冷たい一言で、潮目の妄想はピタリと止まった。
潮目ナギ法の誕生、そして…
「……わかってるよ。でも、なんだかワクワクしないかい? 僕たちも、何かを生み出せるかもしれないって!」
潮目は気を取り直して、実験台の上に転がっていたビーカーと電極を手に取った。
「よし、決めた! 僕たちもラボトロニカの技術を結集して、何かを合成しようじゃないか! その名も『潮目ナギ法』だ!」
高らかに宣言し、潮目は手際よく(そして雑に)ケーブルを電源に接続し始めた。
「潮目さん、その配線はショートします」
ナギが警告するが、それより早く潮目はスイッチを入れた。
パチッ! という小さな音と同時に、ビーカーから鮮やかな紫色の煙がモクモクと立ち上り始める。けたたましく火災報知器が鳴り響いた。
「うわあああ! な、なんだこれ!?」
「ただの過マンガン酸カリウムの蒸気です。早く止めないとスプリンクラーが作動しますよ」
ナギは慌てる潮目を横目に、冷静にメイン電源を落とし、換気扇のスイッチを入れた。
紫色の煙が充満するラボで、潮目は床にへたり込む。
「……なんだかなあ」
「ええ、なんだかなあ、ですね。さ、後始末しますよ。雑巾はあちらです」
発明への道は、いつだって地道な後片付けから始まるのだった。