月の石の熱狂から50年、僕らは太陽風で「月面」をラボに召喚する
1970年の熱狂
月の石が万博で展示されていた時、潮目はまだ生まれていなかった。
けど当時の映像を見ると、それはそれはものすごい盛り上がりのようで、見ているこっちもなんとなく熱に乗せられてしまいそうになる潮目だった。ラボの休憩室の古びたディスプレイに映る、黒山の人だかり。その視線の先にある、小さな石ころ。
「いやはや、すごい熱気ですよね、これ」
潮目は、手にしたマグカップを揺らしながら感嘆の声を漏らした。
「大阪万博のアメリカ館ですね。最大で8時間半待ちだったとか」
隣でタブレットを操作していたナギが、顔も上げずに補足する。
「8時間半! みんな、この石に何を見てたんでしょうかね。宇宙、未来、人類の進歩……。僕もこの時代に生まれて、この行列に並んでみたかったなあ」
「並んでいる間に確実に機材に躓いて、大惨事を引き起こしていたでしょうね。潮目さんがこの時代にいなくて、人類にとっては幸いでした」
「ひどいなあ、ナギ君! でも、今の僕らなら、この石が持つ本当の情報を、もっと深く読み解けるはずなんですよ」
目を輝かせながら、潮目はディスプレイを指差した。
宇宙風化をキッチンタイマーで
「月の石が、なぜあんなに黒っぽいのか。その原因の一つが『宇宙風化』、特に太陽風の影響とされていますよね」
「ええ。高エネルギー粒子が降り注ぐことで、土壌の化学組成や光学的特性が変化する現象です」
潮目の言葉に、ナギは静かに頷く。
「その宇宙風化を、この地球の、僕らのラボで再現しようっていう試みはずっとあった。でも、なかなかうまくいかなかった。それが……ついに、ブレークスルーが来たみたいなんですよ!」
潮目が興奮気味に言うと、ナギはスッと自分のタブレットを彼に向けた。
「このデータのことですか」
Our results show that SW irradiation of ilmenite can directly produce npFe0 on very short timescales (<100 yr) without the need for additional thermal or shock processing.
(我々の結果は、太陽風の照射が、追加の熱や衝撃処理を必要とせずに、非常に短い時間スケール(100年未満)で直接ナノフェーズ鉄(npFe0)を生成できることを示している。)
出典: Solar Wind Implantation in Ilmenite as a Source of Nanophase Iron and a Sink for Hydrogen: Experimental Findings and Implications for Lunar Space Weathering : The Planetary Science Journal
「そう、これです! 太陽風を浴びせるだけで、熱も衝撃もいらない! しかも100年未満っていう、宇宙スケールで言えば一瞬でナノ鉄ができるって!」
「この実験の意義は、その再現性の高さにあるようです。こちらもどうぞ」
ナギは画面をスワイプし、別のデータを表示した。
Scientists have been doing laboratory radiation experiments for years, but they haven't been able to characterize the results at this level of detail.
(科学者たちは長年、実験室での放射線実験を行ってきたが、これほど詳細なレベルで結果を特徴づけることはできていなかった。)
出典: In the lab and on the moon: Scientists recreate solar wind to explore lunar surface's evolution : Phys.org
「つまり、今までの実験がフワッとしてたのを、今回はバチッと解像度高く再現できた、と。いやはや、素晴らしいデータです!」
太陽風とDIY精神
潮目はマグカップをデスクに置き、両手を組んで唸った。
「これって、つまりですよ。太陽風さえあれば、どんな星でも勝手に鉄が精錬されるってことじゃないですか!? 遠い未来、宇宙移民がわざわざ鉱山を掘らなくても、太陽風を浴びた石ころを集めるだけで、宇宙基地が作れるんですよ!」
壮大なビジョンを語る潮目に、ナギは冷ややかな視線を送る。
「生成されるのはナノフェーズ鉄です。基地の建材にするにはスケールが違いすぎます。それに、この記事が示唆しているのは水素の貯蔵庫としての可能性。もっと現実的な、月面での水資源確保の話です」
「夢がないなあ、ナギ君は……。でも、確かに水素も大事だ。……待てよ? この太陽風照射装置って、もしかしてうちのラボでも作れるんじゃ?」
潮目の目が、再び少年のようにキラキラと輝き始めた。
「あの超高真空チャンバーと、イオン銃を改造すれば……太陽風ジェネレーターが完成するのでは?」
「ボスに予算申請が通るとは思えませんね。そもそもイオン銃は別の観測で予約でいっぱいです」
「いやいや、シミュレーションですよ! 月に行かなくても、このラボの中で月面環境を再現して、新しい素材開発とかできるかもしれないじゃないですか! 月面用ソーラーパネルのコーティングとか、月の砂を使った3Dプリンタ用の新素材とか!」
「……その発想は、悪くないかもしれません。ラボトロニカの観測機器の耐久性テストにも応用できそうです」
珍しくナギが肯定的な反応を示したことで、潮目の妄想はさらに加速していく。
ラボトロニカ、月へ
「よし! やりましょう、ナギ君! ラボトロニカ月面進出計画です!」
潮目は立ち上がり、ホワイトボードに向かって何やら設計図のようなものを描き始めた。
「まず、あの古い電子レンジからマグネトロンを取り出して、イオン源を……」
「火事おこしますよ。危険物取扱者の資格を剥奪しますよ」
ナギがきっぱりと否定する。
「じゃあ、高電圧発生装置は……そうだ! ナギ君のドローンに積んでる静電気除去装置をブーストすれば!」
「私を巻き込まないでください。感電します」
「うーん……じゃあ、あのコーヒーメーカーのヒーターでサンプルを加熱して、そこにドライヤーでイオン化した空気を……」
「それは月面環境ではなく、ただの焦げたコーヒー豆の匂いがする空間を生成するだけです」
「手厳しい! でも、なんだか楽しくなってきましたね!」
万博の熱狂から半世紀。
月を目指す方法は、巨大なロケットだけじゃないのかもしれない。デスクの上のガラクタと、尽きることのない好奇心。それさえあれば、僕らはどこへだって行けるのだから。二人のワイワイガヤガヤとした声は、夜のラボにいつまでも響いていた。