脳は過去を見るか?「直感」を更新する回路と、戦慄のボス
静寂と、彼女の香り
ラボの空気は、いつもナギから変わる。
彼はふとタイピングの手を止め、静かに顔を上げた。その視線の先には、モニターに映る数字の羅列に没頭する潮目研究員の背中がある。
「潮目さん、ボスが来ます」
「え? 所長が? なんでわかるのナギ君」
返事はない。ただ、潮目が首を傾げたその瞬間、彼の背後にすっと影が落ちた。ふわりと、脳が痺れるような高級な香水の匂いが漂う。
「……ひっ」
潮目の肩が凍りついた。モニターを覗き込む彼のすぐ真横に、白波所長の完璧な横顔があった。長い黒髪が、潮目の頬をかすめる。
「あら。ずいぶん楽しそうなデータね」
耳元で囁かれた甘く、しかし刃物のように鋭い声に、潮目は完全にフリーズした。ナギは、そんな二人から静かに視線を逸らし、自らのモニターへと意識を戻す。
ナギにとって、白波所長は畏怖と敬愛の対象だ。彼女の一挙手一投足は、まるで未来を予見しているかのように隙がない。その恐ろしいまでの直感力と、それを支える感性の鋭さに、ナギは心酔していた。
「あ、しょ、所長! い、いつの間に……!」
「あなたの直感は、相変わらず鈍いわね」
所長はくすりと笑い、美しい指先でモニターの一点を指し示した。
直感を司る脳の回路
「……ちょうど、その『直感』について考えていたんです」
ようやく再起動した潮目が、慌てて話題を切り出す。
「そもそも、直感ってなんなんでしょうね。科学的に説明できるものなのか……」
「いい質問ね。ちょうど面白い論文を見つけたのよ」
そう言うと、所長は手元の端末を操作し、メインスクリーンにひとつのデータを投影した。
We find that interactions between the posterior parietal cortex (PPC) and its higher-order thalamic counterpart, the pulvinar (PUL), are necessary to stably maintain representations underlying decision-making based on sensory history. We also identify a mechanism by which shifts in statistical patterns across recent sensory experiences engage inhibitory control of the PUL by the thalamic reticular nucleus (TRN) to facilitate the updating of encoded sensory history.
(我々は、後頭頂皮質(PPC)とその高次視床の対応領域である視床枕(PUL)との相互作用が、感覚履歴に基づく意思決定の基盤となる表象を安定して維持するために必要であることを発見した。我々はまた、最近の感覚経験における統計的パターンの変化に応じて、視床網様核(TRN)が視床枕(PUL)を抑制的に制御し、符号化された感覚履歴の更新を促進するメカニズムを特定した。)
出典: Control of Representation Updating by Higher-Order Thalamus Enables History-Based Decision-Making : Neuron (配信元: Cell Press)
「後頭頂皮質と……視床枕!?」
潮目の目に、途端に輝きが戻る。
「過去の感覚履歴、つまり経験則に基づいて意思決定する部分を、必要に応じて更新するメカニズム……。これこそ直感の正体じゃないですか!」
「潮目さん、興奮しすぎです。こちらの資料もどうぞ」
ナギが冷静に、関連するプレスリリースのデータを隣のスクリーンに表示させた。
本研究成果は、変化の激しい環境でいかに適応していくのかという情報のスクリーニング過程と直結し、将来的には思い込みによる認知バイアスの制御、情報に惑わされない精神的健康の維持、幻聴の治療開発といった幅広い分野への社会実装に貢献すると期待されます。
出典: 直感の更新メカニズムの解明-認知バイアス、幻聴や思い込みの機序解明・治療開発に期待- : 理化学研究所 (配信元: RIKEN)
「なるほど、思い込みや認知バイアスの制御にも繋がる、と。現実的な話ですね」
「でもナギ君! これはすごい発見ですよ!」
潮目はナギの方を振り返り、熱っぽく語り始めた。
過去のデータが、未来を創る
「つまり、僕たちの脳は無意識のうちに過去の膨大なデータを統計処理して『これが最適解だ』っていう答えを弾き出してるってことですよね!」
「まあ、そういうことになりますね。決して超能力や予知能力の類ではありません」
「わかってますよ! でも、もしですよ? このPPC-PUL回路を外部からハッキング……いや、活性化できたらどうなります!?」
潮目の妄想が加速していく。
「特殊なヘルメットを被るだけで、ベテラン漁師の『魚群がいる潮目』を瞬時に見抜く直感がインストールされるとか! まさに超能力じゃないですか!」
「それは単なる認知バイアスの強化です。過去データにない未知の状況には対応できませんよ。潮目さんの元カノが怒った理由が、過去のどのデータにも当てはまらなかったように」
「うっ……その話はやめてください……」
痛いところを突かれ、潮目はうなだれた。
「ですが、このメカニズムはラボの観測機材に応用できるかもしれませんね」
ナギが淡々と続ける。
「観測データに含まれる膨大なノイズから、過去のパターンに基づいて『意味のある変化』だけをリアルタイムで抽出するフィルターシステムです。泥臭いフィールドで、より精度の高い観測が可能になります」
「それだ! 新しい観測ドローン『ナギ MK-II』に搭載しましょう! その名も『直感センサー』!」
「ネーミングセンスはさておき、検討の価値はありますね」
二人の議論が白熱していくのを、白波所長は腕を組んで静かに、そして楽しそうに眺めていた。
遅すぎる仮説
数時間に及ぶ議論の末、潮目とナギはついにひとつの結論にたどり着いた。
「わかりました! この脳の更新メカニズムは、まさに生態系の『ゆらぎ』に適応するための生存戦略そのものなんです! 安定した環境では過去の経験則を使い、環境が激変した瞬間に古い直感を捨てて新しいデータに適応する……!」
「ラボトロニカの観測テーマである『データと風景のあいだ。』を繋ぐ、完璧な仮説です!」
潮目とナギは顔を見合わせ、歓喜のハイタッチを交わした。その瞬間、潮目の端末に一通のメッセージが届く。差出人は、白波所長。いつの間にか彼女の姿はラボから消えていた。
メッセージを開いた潮目は、その場で崩れ落ちた。
『その仮説と同じもの、3日前に私が思い至ってドラフト書き出したわ。後で検索してみなさい。遅いわね』
「さ、3日……前……?」
潮目が愕然とする横で、ナギは静かにキーボードを叩いていた。
「……ボスは、この論文を読んだ瞬間に、我々が今たどり着いた結論まで一瞬で到達していた……?」
「まさか……所長の脳では、PPC-PUL回路が僕たちの100倍くらいの速度で回転してるってこと……?」
「……あり得ますね」
ナギの冷たい肯定に、潮目はただただ戦慄するしかなかった。ラボに残されたのは、高級な香水の残り香と、二人の無力感だけだった。