失われた再生能力の鍵、あるいは潮目研究員増殖計画の顛末
静寂のラボ、再生への問い
深夜のラボトロニカ。モニターの光だけが、整然と並んだ機材のシルエットをぼんやりと照らしている。
キーボードを叩く音だけが響く中、研究員の潮目は山中教授が発表したiPS細胞に関する過去の論文を食い入るように見つめていた。その隣では、助手のナギが淡々と関連データを整理している。
ふと、潮目は顔を上げた。
「ナギ君、すごいですよね。たった数個の因子で、細胞の時間を巻き戻してしまうなんて」
「ええ。何度見ても革命的なデータです。それで、またケーブルを踏んでますよ、潮目さん」
ナギが足元を指差すと、潮目は慌てて足をどけた。危うくコーヒーの入ったマグカップを倒すところだった。
「おっと、失礼。いやはや、こういうのを見ていると思うんですよ。人間って、そもそもどのくらい自分で自分を治せる能力があるのかなって」
「自己回復能力、ですか。創傷治癒や肝臓の一部再生などが知られていますね」
「もっとこう、SFみたいに! 例えば、失くした指がまた生えてくるとか。いつか僕の分身体を作れるようになったりして!」
子供のように目を輝かせる潮目。ナギは静かにため息をついた。
マウスの指に見た、失われたはずの光
「そんな夢物語を、と呆れるかもしれませんが、見てくださいよ、この論文を!」
潮目は興奮気味に、メインスクリーンにひとつの論文データを映し出した。
The findings demonstrate that regenerative failure in mammals can be rescued and replaced with an epimorphic regenerative response by sequential treatment with FGF2 and BMP2.
(この発見は、哺乳類における再生不全が、FGF2とBMP2による連続的な処置によって救済され、形態形成を伴う再生応答に置き換えられることを実証するものである。)
出典: Digit regeneration in mice is stimulated by sequential treatment with FGF2 and BMP2 : Nature Communications
「これ、マウスの実験ですけど、特定の因子を投与すれば、失った指を再生できるってことですよね!? トカゲの尻尾みたいじゃないですか!」
「確かに興味深いデータです。ですが、あくまでマウスでの限定的な成功例です。それに、関連する解説記事では、研究者はもっと慎重な言い方をしていますよ」
ナギはそう言うと、隣のウィンドウに別の記事を素早く表示させた。
"The cells that we thought to be unprogrammable, in fact are," Suva said. "The capacity is not absent -- it's just obscured."
(「我々が再プログラム不可能だと考えていた細胞は、実際にはそうではなかった」とスヴァ氏は語った。「その能力は失われたのではなく、ただ覆い隠されているだけなのだ」)
出典: Humans may have hidden regenerative powers : Texas A&M University
観測効率2倍、あるいは苦労も2倍
「やっぱり! 僕の仮説は間違ってなかった!」
潮目はデータ見て、さらに声を大きくした。
「僕らの体に眠る再生能力は、失われたんじゃなくて、隠されてるだけなんですよ! これはもう、指どころか腕一本、いや、全身を再生できる未来が来るってことじゃないですか!」
潮目の妄想は止まらない。彼はガッツポーズをしながらナギに詰め寄った。
「つまり! 究極的には、僕の完璧なコピー、分身体を作れるようになるんですよ! ナギ君!」
「……潮目さん。その仮説は論理の飛躍です。これは細胞レベルのポテンシャルを示唆する話であって、個体をまるごと複製する技術に直結するものではありません」
ナギは冷静に反論する。
「それに、仮に潮目さんの分身体ができたとして、何かメリットが?」
「メリットだらけですよ! 一人の潮目が過酷なフィールドワークで泥だらけになっている間、もう一人の潮目はラボで快適にデータ分析! 観測効率は夢の二倍です!」
得意げに胸を張る潮目。しかし、ナギの表情は温度を失ったままだった。
「観測効率は二倍になるかもしれませんが」
ナギは静かに続けた。
「潮目さんがこぼすコーヒーの量も、踏んで絡ませるケーブルの数も、そして私が処理する機材の修理申請書も、すべて二倍になりますね」
再生する前に、まず予算を
「うっ……」
潮目の言葉が詰まる。
ナギはどこからか取り出したタブレットを潮目の目の前に突きつけた。画面には「対潮目研究員・業務負荷予測シミュレーション」という恐ろしいタイトルのグラフが表示されている。
「分身体が三人になれば三倍、四人になれば四倍。私のサポート業務とラボの雑務は指数関数的に増大します。これはラボの運営を物理的に破綻させる、きわめて危険な計画です」
その冷徹な分析に、潮目は完全に沈黙した。
「というわけで、潮目さん増殖計画は、ボスに報告するまでもなく、この場で却下します。その妄想は、今すぐ脳内から削除してください」
「……はい」
しょんぼりと肩を落とす潮目。ナギは静かにため息をつくと、スクリーンに表示されていた希望に満ちた論文データを、無慈悲に閉じたのだった。