思考停止のプロンプト――AIに未来を尋ねる者たちへ
静寂のラボと、湯気の向こう側
夜のラボは、観測機器の低い駆動音だけが響いている。潮目はマグカップを片手に、大きな窓から見える街の灯りをぼんやりと眺めていた。
「うーん……」
深い、深い溜息だった。背後から、すっと気配が近づく。
「ため息の成分を分析しましょうか。カフェインと懸念物質が半々といったところですか」
声の主は、助手のナギだった。潮目は苦笑いを浮かべて振り返る。
「ナギ君か。いやね、最近思うんだ。AIのおかげで調べ物は便利になったけど、自ら考える前に、まずAIに聞くのが当たり前になってきてないかなって」
「思考の外部委託、ですか」
「そう!その通り!このままだと、トライアンドエラーを繰り返しながら自分で答えに辿り着く、っていう大事な習慣がなくなって、新人が育たずに終わるんじゃないかって。そんなことを考えてたら、なんだか怖くなってきちゃってさ」
潮目が肩をすくめると、ナギは静かにタブレット端末を起動させた。
「……潮目さん。その懸念、あながち杞憂ではないかもしれません。ちょうど関連するデータが」
データが映す、思考の格差
ナギが差し出した画面には、英文の論文が表示されていた。
「高等教育における生成AIの利用と不正利用に関する論文です」
「うわ、やっぱり研究されてるんだ!見せて見せて!」
潮目は身を乗り出して、画面を覗き込んだ。
We found substantial heterogeneity in GenAI use and misuse across disciplines and student groups. These patterns call for discipline-specific assessment reform, not blanket bans or universal detection regimes.
(我々は、生成AIの利用と不正利用が学問分野や学生グループによって著しく異なることを見出した。これらのパターンは、包括的な禁止や画一的な検出体制ではなく、分野に特化した評価改革の必要性を示している。)
出典: Generative AI calls for assessment reform in higher education : Science (配信元: Science.org)
「『分野に特化した評価改革の必要性』か…。なるほど、単純に禁止しろって話じゃないんだな」
潮目が頷くと、ナギは指で画面をスワイプした。
「ええ。そして、不正利用のパターンにも興味深い傾向が示されています」
生成AIを使った不正行為のパターンも学科によって異なった。推定悪用率は、概してSTEM以外の分野で高く、経済学(17%)とジャーナリズム学(16%)で比較的高かったのに対し、生物学(5%)は最も低かった。
出典: Generative AI calls for assessment reform in higher education : Science (配信元: EurekAlert!)
「経済学とジャーナリズムで高くて、生物学は低い……。これ、一体どういうことなんだろう?」
AIに頼る者、泥にまみれる者
潮目の目が、キラリと光った。いつもの知的なスイッチが入った証拠だ。
「わかったぞナギ君!これはAIによる壮大な社会実験だ!論理や数式より、解釈の幅が広い文章を扱う分野の学生をまず手懐けて、世論を掌握しようという……!」
「そのSFプロットは後で聞きます」
ナギは潮目の暴走を冷静に遮った。
「単純に、実験や観察が必須で、唯一の正解が存在しにくい生物学のような分野より、テキストベースで完結しがちなレポート課題が多い分野で悪用されやすい。ただそれだけのことでは?」
「あ……そっか。そりゃそうか。僕らみたいに、長靴を泥だらけにして集めた一次データは、さすがのAIも生成できないもんなあ」
潮目は少し残念そうに頭を掻いた。
「ええ。その泥の重みこそが、思考の源泉ですから」
「でもさ、このAIの文章生成能力を僕らの観測機材に応用できたら面白いかも!膨大な観測データから、次の実験計画の仮説を100パターンくらい自動生成してくれるAIとか!」
「予算の範囲内であれば検討の価値はありますね。ですが、その100パターンのどれが有望か、最終的に決断するのは潮目さん、あなたです。思考まで放棄してはいけません」
ナギの的確な指摘に、潮目はハッとした顔で頷いた。
そして誰も考えなくなった
「だよな……。AIはあくまで優秀なアシスタント。最後の最後まで自分の頭で考え抜かないと、意味がない。僕も気をつけないと。ついナギ君に『これどう思う?』って聞いちゃうし」
「……そうですね」
ナギの短い肯定に、潮目はふと、何か恐ろしいことに気づいたように固まる。
「……ん? 待って。それってさ」
「はい」
「僕みたいに、何でもまず優秀な助手のナギ君に頼って、思考をショートカットする……。そんな新人がこれからラボに増殖するってこと…?」
「……」
ナギは何も答えなかった。
しんと静まり返ったラボで、二人は無言で顔を見合わせる。潮目のマグカップから立ち上る湯気だけが、ゆらりと揺れていた。
それは、けっこう、いや、かなり洒落になっていない未来の風景のような気がして、二人は背筋に冷たいものが走るのを感じた。