痛みと快楽の境界線で、僕らは何を見るか
もったいない才能の活かし方
ラボの大型モニターに、ニュース速報のテロップが流れている。
またか、と潮目は思った。著名人が大麻所持で逮捕されたという、見慣れたニュース。彼はマグカップのコーヒーをすする手を止め、画面をじっと見つめる。
「潮目さん、また眉間にシワが寄ってますよ」
背後から、ナギの静かな声がした。
「ああ、ナギ君。いやね、このニュースを見るたびに思うんですよ。本当にもったいないなあって」
「もったいない、ですか。法を犯したことが?」
「いや、そうじゃなくて!この植物が持つポテンシャルのことです!」
潮目は身振りを交えて熱弁を始める。その拍子に、持っていたマグカップが揺れ、茶色い液体が数滴、コンソールに飛び散った。
「あわわっ」
「……布巾です。それで、ポテンシャルとは?」
ナギが差し出した布巾を受け取りながら、潮目は続ける。
「だってそうでしょう?強力な鎮痛作用があることは、もうみんな知ってる。でも、精神にも作用しちゃう。だから規制される。この二つを分離できたら、どれだけ多くの人が痛みから解放されるか……」
「目立つ薬効を持つ植物は、往々にして毒や精神作用もセットですからね。自然界のパッケージです」
「ですよねえ!この鎮痛成分だけを、こう、スポイトで吸い出すみたいに抽出できれば……。いやはや、なんと惜しいことか」
潮目が本気で悔しそうに天を仰ぐ。その様子を見て、ナギは静かに口を開いた。
「潮目さん。その『夢物語』は、もう現実になりつつあるかもしれませんよ」
「えっ?」
ナギは手元の端末を操作し、メインモニターに一つの論文データを表示させた。
「ハイ」にならない鎮痛薬
「これは……?」
潮目はモニターに映し出された英文の羅列に目を凝らす。
「アリゾナ大学などによる最新の観測データです。まさに潮目さんが今、熱弁していた内容そのものですよ」
ナギは淡々と説明を始めた。
These results demonstrate that the terpenes geraniol, linalool, β-caryophyllene, and α-humulene may be a viable medication for post-operative and fibromyalgia pain relief.
(これらの結果は、テルペンのゲラニオール、リナロール、β-カリオフィレン、およびα-フムレンが、術後痛および線維筋痛症の痛み緩和のための実行可能な治療薬となりうることを示している。)
出典: Select terpenes from Cannabis sativa are antinociceptive in mouse models of post-operative pain and fibromyalgia via adenosine A2a receptors : Pharmacological Reports (配信元: SpringerLink)
「テルペン……!植物の香り成分ですよね?それが痛みに?」
「はい。そして重要なのは、この研究について解説したこちらの二次情報です」
ナギは、もう一つのデータをモニターに追加で表示した。
Our findings show that terpenes may be a viable treatment option for fibromyalgia pain, which could potentially have a large impact and make a difference for an under-treated population.
出典: Scientists found a cannabis compound that relieves pain without the high : University of Arizona, Office of Research and Partnerships (配信元: ScienceDaily)
「うおお!?」
潮目は思わず立ち上がった。
「『pain without the high』!?ハイにならずに、痛みを和らげる!?」
「その通りです。精神作用を引き起こす主要成分(THCなど)とは別の、テルペン類に注目した研究ですね」
「まさにこれだ!僕が言いたかったのは、こういうことなんですよ、ナギ君!」
興奮して前のめりになる潮目。その瞳は、データという新たな風景に完全に心を奪われていた。
痛みだけを消す未来のフィルター
「すごい、すごすぎる……!ゲラニオールにリナロール……これってバラやラベンダーの香り成分じゃないですか!そんな身近な物質が、大麻の鎮痛作用の鍵を握っていたなんて!」
潮目の興奮は最高潮に達している。
「これを応用すれば……そうだ!痛みという生体信号だけをフィルタリングする、夢のセンサーが作れるかもしれない!ケガをしても、感覚はあるけど『苦痛』というノイズだけが除去されるんです。まるで超能力ですよ!」
「またSF的な妄想が始まりましたね。あくまでマウス実験の段階ですし、アデノシンA2a受容体という特定の経路を介した作用です。人間に応用するには、まだまだ泥臭い検証が必要ですよ」
ナギは冷静に釘を刺す。
「いやしかし!このメカニズムをラボトロニカの観測機材に応用できたらどうです?生態系が発する微弱なストレス信号……例えば、水不足に苦しむ植物の悲鳴のようなデータだけを抽出できるかもしれない!」
「植物の悲鳴、ですか。潮目さんらしい発想ですが、興味深いですね。環境ストレスの早期警戒システムとして実装できるかもしれません」
「でしょう!?痛みを知るからこそ、それを避けられる。この研究は、ただの医療技術じゃない。自然との対話を、もっと深いレベルで可能にする鍵なんです!」
二人の議論は、ラボの静寂を切り裂いて熱を帯びていく。一つの論文から始まった観測は、テクノロジーと自然の新たな交差点を見つけ出そうとしていた。
抽出したい、あなたのその成分
「いやあ、それにしても……」
ひとしきり興奮した後、潮目は椅子に深く座り直し、しみじみと呟いた。
「精神に作用する成分って、本当に厄介なものですよね。あれさえなければ、もっと多くの人や技術を、ポジティブな方向に導けるのに」
その言葉は、純粋な科学者としての偽らざる本音だった。
その横顔を静かに見つめながら、ナギは心の中で思う。
(……潮目さん)
(あなたのその、時に周囲を巻き込んで大火傷させる過剰な情熱と、コーヒーをこぼすドジっ子属性という『精神作用成分』も)
(もし抽出して分離できるのなら)
(世界中の人々が、もう少しだけ鈍感に、そして穏やかに暮らせるようになるかもしれませんね)
「……ナギ君?どうかしましたか?」
「いえ。次の観測準備を始めます。またケーブルを踏んでラボを停電させないでくださいね」
そう言ってナギは静かに席を立った。潮目は「も、もちろんですよ!」と慌てて背筋を伸ばす。
ラボの窓から差し込む西日が、二人の影を長く、長く伸ばしていた。