犬の歩幅は口ほどにものを言う?相棒の沈黙に隠されたサインを観測する
雨音と、遠い日の散歩
ラボの窓を叩く雨音だけが、静かに響いていた。先日、知り合った人妻に「可愛い」と散々からかわれた挙句、あっさり振られた潮目は、マグカップを両手で包み込み、ぼんやりと外を眺めている。
普段は断然、猫派。気まぐれで、自立していて、それでいて時折甘えてくる距離感がたまらない。だが、傷心の心には、ただひたすらに忠実で、全身で喜びを表現してくれる犬の存在が、やけに眩しく映るのだった。
「子供の頃、犬を飼ってたんだよな…」
潮目は誰に言うでもなく呟いた。雨の日も風の日も、ただ黙って隣を歩いてくれた相棒。そんな彼も、いつかは年老いて、足腰がおぼつかなくなる。もしかしたら、人間と同じように、大切な記憶を少しずつ失っていくのかもしれない。
「苦楽をともにした犬だって、認知症になるのかな…」
歩幅が語る、見えない衰え
「潮目さん、また難しい顔をして」
背後から、ナギの静かな声がした。いつの間にか隣に立った彼は、潮目のタブレットを一瞥する。
「ああ、ナギ君。いやね、昔の相棒を思い出してて…。そういえば、こんなデータを見つけたんだ」
潮目が画面をタップすると、ひとつの論文が映し出された。
Although CADES scores increased with age, their association with stride length persisted after adjustment for age and pain, while age alone was not a significant predictor in the multivariable model.
(CADESスコア(犬の認知症スケール)は加齢とともに上昇したが、歩幅との関連は年齢と痛みを調整した後も持続した一方で、多変量モデルにおいて年齢単独では有意な予測因子ではなかった。)
出典: Thoracic limb stride length is associated with cognitive impairment in aging dogs : Frontiers in Veterinary Science
「やっぱりそうなんですね…。ただ年を取ったから、足が痛いからってだけじゃないんだ」
「ええ。こちらのニュースでは、もっと直接的に表現されていますよ」
ナギはそう言うと、自身の端末から潮目のタブレットへ、すっとデータを転送した。
These results suggest that a decline in stride length could be an early warning sign of canine dementia, and so an informative new tool for veterinarians.
(これらの結果は、歩幅の減少が犬の認知症の早期警告サインであり、獣医師にとって有益な新しいツールとなりうることを示唆している。)
出典: Shorter front-leg strides can be an early warning sign of dementia in senior dogs : Frontiers
「早期警告サイン…か。言葉を話せない彼らにとって、これは重要な観測データですね」
潮目の目が、いつもの研究者の色を取り戻していた。
魂の揺らぎを可視化する夢
「いやはや、素晴らしいデータです!つまり、歩幅を計測するだけで、犬の認知機能の変化を捉えられるってことですよね!」
潮目は興奮して立ち上がった。
「もしかしたら、これはただの物理的な衰えじゃない!心の、いや、魂の揺らぎが歩き方に現れてるんですよ!未来の記憶まで可視化できるかもしれない!」
「魂は観測範囲外です、潮目さん」
ナギは冷静にコーヒーを啜る。
「あくまで、認知機能の低下が運動を制御する神経系に影響を与え、その結果として歩幅という物理現象に変化が現れる。そういう泥臭い話ですよ」
「うーん、そう言われるとそうだけど…。でも、夢があるじゃないですか!もしこのメカニズムを応用できたら…」
潮目の妄想が加速する。
「例えば、歩幅センサーを内蔵したスマート首輪とか!日々の散歩データをクラウドに蓄積して、変化があったら飼い主のスマホにアラートが飛ぶんです!」
「なるほど。散歩ルートのGPSと連携させれば、どの場所で歩幅が乱れやすいか、といった傾向も分析できそうですね。迷子犬の捜索にも応用できるかもしれません」
「それだ!ラボの観測ドローンで公園の犬を自動追尾して、リアルタイムで歩幅をモニタリングするシステムなんてどうかな!?」
「それは犬好きに受けるかもですが、だいぶニッチです。あと、まずは自分の足元のケーブルを踏まないようにしてください」
ナギの指摘に、潮目は足元を見て「あっ」と声を上げた。
それでも、気まぐれな同居人が好き
「でも、やっぱり犬っていいなぁ…」
ひとしきり盛り上がった後、潮目は再び椅子に深く腰掛け、窓の外の雨を見つめた。
「何も言わなくても、ただ隣にいてくれる。人生っていう長い散歩道の、最高の伴走者って感じがするよ」
その感傷的な言葉に、ナギは静かに返した。
「伴走者もいいですが」
ふと見ると、ナギは自分のデスクに置かれた小さな端末を、優しい手つきで撫でている。そこには、気持ちよさそうに丸まって喉を鳴らす、黒猫のホログラムが映し出されていた。
「私は、こちらの気も知らずにキーボードの上で寝そべったり、締め切り直前のモニターの前にわざわざ座り込んだりする、気まぐれな同居人の方が好みですけど」
その完璧な毛並みと、自由気ままな姿。潮目はしばらく見とれていたが、やがてぽつりと言った。
「……うーん」
そして、何かを決心したように顔を上げる。
「やっぱり猫がいいな!ナギ君、猫がいいよ!」
さっきまでの感傷はどこへやら。現金な手のひら返しに、ナギはかすかに、本当にごくかすかに口角を上げ、そして深いため息を一つだけついたのだった。