不安の正体は脳の栄養不足?ケーブルを踏む恐怖とコリンの関係性
床に這うケーブルは、不安のメタファーか
ラボの床は、さながら黒い蛇が巣くう魔境だ。
無数の電源ケーブルやLANケーブルが、潮目(しおめ)研究員の足元に複雑なトラップを仕掛けている。
「うわっ、とと…あぶな…」
案の定、潮目は太いケーブルに足を取られ、派手に体勢を崩した。幸い、転倒は免れたが、彼の額には冷や汗が浮かんでいる。
「はぁ…心臓に悪い。なんでこんなに不安になるんでしょうね、ケーブルを踏むのって」
「またケーブル踏んでますよ、潮目さん」
背後から、助手のナギが呆れた声で言った。その手には、乱雑に置かれた機材を整理するための結束バンドが握られている。
「いや、違うんですよナギ君!今のは物理的な危険の話じゃなくて、もっと根源的な…そう、『不安』そのものについての哲学的問いかけなんです!」
「そうですか。私には、単に足元を見ていないだけに見えますが」
「そもそも不安とは何なのか。この漠然とした恐怖、未来への不確実性…。いやはや、実に興味深いテーマですよね!」
熱弁をふるう潮目を、ナギは冷めた目で見つめていた。
不安を映し出す「脳の化学式」
「まあ、聞いてください!ちょうど、その『不安』の正体に迫る、ものすごいデータを見つけたんですよ!」
潮目は体勢を立て直し、いそいそとメインモニターを指差した。そこには、英文の学術論文が表示されている。
「ほらこれ!不安障害のある人の脳を調べたら、ある共通した異常が見つかったっていうんです!」
Reduced choline-containing compounds in cortical regions is a consistent, transdiagnostic abnormality in AnxDs.
(皮質領域におけるコリン含有化合物の減少は、不安障害における一貫した、診断横断的な異常である。)
出典: Transdiagnostic reduction in cortical choline-containing compounds in anxiety disorders: a 1H-magnetic resonance spectroscopy meta-analysis : Molecular Psychiatry (配信元: nature.com)
「コリン含有化合物…つまり、脳内の特定の化学物質が減っていると。これは大発見ですよ!」
潮目は興奮気味に続ける。
「つまり、僕がケーブルを踏むたびに感じるこの不安も、脳内のコリンが足りないせいなのかもしれない!」
「潮目さんの不注意を、脳内物質のせいにするのはやめてください。…ただ、関連する分かりやすい解説記事もありますね」
ナギはそう言って、手元のタブレットに別の記事を映し出した。
Scientists discovered a striking brain chemistry difference in people with anxiety — and it may be linked to a nutrient most Americans don’t get enough of.
出典: Scientists find hidden brain nutrient deficit that may fuel anxiety : University of California - Davis Health (配信元: ScienceDaily)
「なるほど。不足しがちな『栄養素』と関連がある、と。そういう話ですか」
潮目はゴクリと喉を鳴らした。
栄養素と恐怖、そして観測ドローンへの応用
「栄養素…!つまり、食事で不安がコントロールできるかもしれないってことですよね!?」
潮目の目がキラキラと輝き始めた。
「いや待てよ…もしかしたら、僕らの脳からコリンを奪い去る、未知の宇宙線が地球に降り注いでいるのでは…!?そのせいで現代社会に不安が蔓延しているとか!」
「壮大な話になりましたね。普通に考えて、食生活の偏りが原因でしょう」
ナギは潮目のSF的な妄想をバッサリと切り捨てる。
「不安という複雑な感情が、コリンという特定の栄養素と結びついている。データが示すのは、そういう泥臭い身体のメカニズムです」
「うーん、確かに…。でも、だとしたら凄いことですよ!もし、このコリンの増減をリアルタイムで計測できる超小型センサーを開発できたら…?」
潮目の思考は、いつものようにラボトロニカの観測技術へと飛躍する。
「観測対象の野生動物にそのセンサーを取り付ければ、彼らがいつ、どこで『不安』を感じているかがデータ化できる!捕食者が近づいた時のコリン値の変動とか、絶対面白いデータになりますよ!」
「脳に直接センサーを埋め込むと?倫理的なハードルがかなり高そうですが…」
珍しく、ナギもそのアイデアに興味を示した。
「非接触で脳内のコリン量をスキャンできるドローンとか。それが実現できれば、群れ全体のストレスレベルをマッピングして、生態系の健全性を評価する新しい指標になるかもしれませんね」
「それですよナギ君!いやはや、素晴らしい!夢が広がります!」
二人の議論は、ラボの床に這うケーブルのことなどすっかり忘れて、白熱していく。
本当に怖いもの
ひとしきり議論が盛り上がった後、潮目は喉の渇きを覚えてコーヒーメーカーへ向かおうとした。
そして、再び足元のケーブルに気づき、ビクッと体をこわばらせる。
「…やっぱり、怖いな。このケーブル」
その様子を見ていたナギが、静かに、しかし芯のある声で問いかけた。
「潮目さん」
「は、はい」
「潮目さんが本当に怖いのは、このケーブルを踏んで機材を壊し、白波ボスに怒られることですか?」
「……」
「それとも、ケーブルを踏んだその事実を、私にバレることですか?」
潮目は数秒間黙り込んだ後、小さな声で答えた。
「…どっちもです」
ナギは、深い深いため息をついた。どうやらこのラボに蔓延する不安の原因は、コリン不足でも宇宙線でもなく、もっと身近なところにありそうだ。