夜の密会と黒い蜜の謎、スズメガは闇に何を見るか
ラボの深夜、キーボードに零された憂鬱
静まり返ったラボの深夜。
聞こえるのは冷却ファンの音と、規則正しいキーボードの打鍵音だけ。
「潮目さん、またケーブル踏んでますよ」
「うわっ!あっぶな……!ご、ごめんナギ君。ちょっと集中してた」
潮目は慌てて体勢を立て直す。手にしたエナジードリンクがぐらりと揺れ、数滴がキーボードの上に飛び散った。
「あーーーーっ!」
「……もう、拭いてください。精密機器の悲鳴が聞こえます」
ナギは呆れたようにため息をつきながら、さっとクリーニングクロスを投げてよこした。
「いやはや、すまない!でも見てくれよナギ君、このニュースを!僕の眠気も吹き飛ぶ、最高のデータを見つけちまったんだ!」
モニターに映し出されていたのは、夜の森で光る花の画像だった。
黒い蜜に秘められた暗号
「これ、すごくないですか?夜に咲く花が、黒い蜜を出すっていうんですよ!」
潮目が興奮気味に指差す。
「はい、そのニュースなら私も確認済みです。ヘッドラインは刺激的ですが、元になっている論文はもっと興味深いですよ」
ナギは冷静にそう言うと、手元の端末から一次ソースのデータを潮目のモニターに転送した。
Consequently, although colored nectar has been discussed as a putative display for diurnal flower visitors, the presence of nocturnal pollinators that visually search for nectar sources, such as moths, raises the possibility that colored nectar may also occur in nocturnal pollination systems.
(その結果、有色の蜜は昼行性の訪花者に対するディスプレイとして議論されてきたが、ガのように視覚的に蜜源を探す夜行性の送粉者の存在は、有色の蜜が夜行性の送粉システムでも生じる可能性を提起する。)
出典: Black juice in the dark: Pollination of dark-nectared Jasminanthes mucronata (Apocynaceae) by nocturnal hawkmoths : Ecology
「なるほど…。夜行性のガも、ちゃんと『色』を見ている可能性がある、と」
「ええ。そして、潮目さんが興奮していたニュース記事のほうは、その背景をドラマチックに伝えていますね」
This is the first time that a colored nectar flower has been confirmed to be mainly pollinated by nocturnal insects. The discovery thus promotes further research into this so far unexplored ecology.
(研究者らは当初、昆虫網でスズメガを捕獲しようとしましたが、あまりにも飛ぶのが巧みで失敗が続き、最終的にライトトラップで捕獲に成功しました)
出典: Exposing secret night operations between hawkmoths and Japan's black-nectar flowers : Phys.org
「スズメガ、手強いな!わかる、わかるぞ!僕もフィールドで何度泣かされたことか…」
闇夜の契約と、少年時代の記憶
「でも、なぜ黒い蜜なんでしょうね?夜の闇に紛れて、逆に目立たない気もするんですけど」
「僕の仮説を聞いてくれるかい、ナギ君!これはきっと、スズメガだけが解読できる『光の暗号』なんだよ!」
「光の、暗号…ですか」
「そう!月明かりや星の光に含まれる、僕らには見えない特定の波長の光を吸収して、スズメガにしか見えない色で光り輝くんだ!まさに夜のネオンサイン!」
ナギは数秒、無言で潮目の顔を見つめた。
「…潮目さん、SFの読み過ぎです。もっと現実的な仮説としては、花の白い部分とのコントラストを際立たせるため、あるいは他の不要な訪問者から蜜を隠すためのカモフラージュでしょうね」
「うーん、それも一理あるけど、ロマンがないなあ…!」
潮目は少し口を尖らせる。
「でも、夜の闇の中で、たった一つの存在のためだけに用意されたご馳走か…。なんだかいいですよね」
ふと、遠い記憶が蘇る。
「子供の頃、ゴマダラカミキリを飼ってたのを思い出しました。ティッシュペーパーを小さく丸めて、砂糖水を含ませて虫かごに入れたんですよ」
「カミキリムシ、ですか」
「ええ。そしたら、もう四六時中そのティッシュを齧ってるんです。小さな口で、夢中で。その姿がなんだかたまらなく愛おしくてね。彼にとって、あの砂糖水が世界の全てだったんだろうなあって」
「…珍しく、詩的ですね」
ナギが少しだけ、本当に少しだけ、口元を緩めた気がした。
「この黒い蜜を吸うスズメガも、きっとそんな感じなんでしょうね。もしこの花の蜜の成分を解析して、ラボの夜間観測ドローンに応用できたらどうなるかな?」
「特定のターゲットにだけ反応する光学マーカー、ですか。面白いかもしれません。普段は不可視ですが、専用のライトを当てると発光する。野生動物にストレスを与えない調査が可能になりますね」
「それですよ!夜の密会を邪魔しない、紳士的な観測システム!いやはや、素晴らしい!」
データにならない風景を求めて
潮目たちの議論が、静かな熱を帯びていく。
「ナギ君」
「はい、潮目さん」
「ちょっと、屋上の空気を吸いに行かないかい」
潮目の提案に、ナギは静かに頷いた。
ラボの屋上から見上げる夜空は、どこまでも澄み渡っている。
「今この瞬間も、僕らの知らないどこかで、たくさんの密会が繰り広げられているんでしょうね」
「ええ。データにも、論文にもならない、無数の風景が。…長靴は、泥だらけになりますが」
ナギの言葉に、二人は小さく笑い合った。
観測は、まだ始まったばかりだ。