火星の岩石に囁く生命の歌?ネレトヴァ渓谷で発見されたニッケルの謎
赤い荒野への天啓
ザッ……ザッ……と重たい足音が、赤茶けた大地に響く。
見渡す限り、岩と砂。地球のどこかにある、火星の模擬フィールドだ。
「うーん、やっぱりこの地域の地質データ、ノイズが酷いですね……ナギ君、そっちのセンサーの感度はどう?」
「正常です、潮目さん。ノイズの原因は、あなたが今思いっきり踏んでいるそのケーブルですよ」
「うわっ、ホントだ! あぶな……!」
グラリとよろめく潮目を、ナギが背後から機械的に支える。
「はぁ……今日のコーヒーのこぼし損ね回数はすでに2回。ケーブルの踏みつけ回数はこれで4回目です。記録を更新中ですね」
「いやはや、お恥ずかしい……。でも、この荒野、本当に火星のネレトヴァ渓谷にそっくりで興奮しますよね!」
その瞬間だった。
二人が装着するヘルメットのバイザーに、突如ノイズが走り、見慣れたラボトロニカのロゴが浮かび上がる。
そして、そこに映し出されたのは――黒髪を風になびかせ、冷徹な視線をこちらに向ける絶世の美女、白波所長の姿だった。
『――潮目、ナギ。地球の砂遊びはそこまでにしておきなさい』
「しょ、所長!? なぜ僕たちの通信回線に!?」
「ボス……。この回線は緊急用の暗号化チャンネルのはずですが」
『あなたたちが今いるその“模造品”の、本物の話よ。今から送るデータを見なさい。返事は聞かないわ』
有無を言わさず、二人の視界に高精細なデータファイルが強制的に展開された。
赤い惑星からのシグナル
「こ、これは……火星探査機からの最新データ!?」
「ボスが直接送ってくるとは、よほどのことですか」
『黙って、読みなさい』
所長の一言で、空気が凍る。二人はゴクリと息を飲み、バイザーに映るデータに意識を集中させた。
In 32 rock targets in Neretva Vallis, nickel (Ni) was detected by the SuperCam instrument with concentrations in individual rocks as high as ~1.1 weight percent – the highest abundance ever seen in bedrock on Mars.
(ネレトヴァ渓谷の32の岩石ターゲットにおいて、SuperCam装置によってニッケル(Ni)が検出され、個々の岩石における濃度は最大で重量比約1.1%に達した。これは火星の岩盤でこれまでに観測された中で最も高い含有量である。)
出典: Strong nickel enrichment co-located with redox-organic interactions in Neretva Vallis, Mars (Nature)
「ニッケル……! しかも1.1%って、とんでもない高濃度ですよ! まさに僕たちが今、模擬調査してるネレトヴァ渓谷じゃないですか!」
潮目の声が興奮で上ずる。
「これはもう、古代火星文明が遺した超合金の残骸に違いありません! そうでしょう、所長!」
『……潮目。あなたのそのSF脳、少しは冷却したらどうかしら』
通信越しに、絶対零度の声が突き刺さる。
「潮目さん。重要なのは、なぜ『ニッケル』なのか、という点です。ボス、関連解説データを転送します」
ナギが冷静に指先を動かすと、新たなデータがポップアップした。
ニッケルは、多くの古代の古細菌や細菌種の酵素に欠かせない成分であり、エネルギー生成、炭素固定、および有機物の分解に用いられる一部の化学経路に必要とされる。著者らは、ニッケルを豊富に含む岩石の存在は、もし初期の火星に生物がしていたなら、利用可能な形でニッケルが存在していた可能性を示すものだと述べている。
出典: ニッケルを豊富に含む岩石が古代の火星の化学的性質を明らかにする (Nature Asia)
生命の金属、ニッケルの夢
「……なるほど。超合金じゃなくて、生命の材料だった、と……!」
「地球の初期生命、特にメタンを生成するような古細菌にとって、ニッケルは必須の触媒でした。つまり、これは火星にかつて微生物がいた可能性を示す、極めて強力な状況証拠です」
「待ってくれナギ君! ということは、今も火星の地下深くに、ニッケルを“食べる”岩石生命体みたいなヤツらが蠢いてる可能性が……!?」
「飛躍しすぎです。あくまで太古の微生物の痕跡、あるいはその『揺りかご』となった環境があった、という話です。岩石生命体は確認されていません」
「でも、夢があるじゃないですか! もし、このニッケル代謝のメカニズムを応用できたら……? 例えば、ラボトロニカの観測ドローンに自己エネルギー生成機能を持たせられるかもしれない!」
「……ニッケルを触媒にして、火星の薄い大気中の二酸化炭素からエネルギーを取り出す、と。それは面白い発想ですね。バッテリー交換が不要な半永久機関ドローン……」
「そう! それさえあれば、人類が到達できない火星の谷底や巨大な洞窟だって、隅々まで探査できる! まさにデータと風景のあいだを、永遠に観測し続けられるんですよ!」
二人の議論が、荒野の上で熱を帯びていく。
その様子を、白波所長は通信の向こうで静かに、しかし満足げに聞いていた。
30分後の未来へ
『……話はまとまったかしら』
突然の所長の声に、二人はハッと我に返る。
「は、はい! このニッケル代謝バッテリーの概念実証モデル、ラボに帰ったらすぐに設計図を……!」
『ラボ? 何を寝ぼけたことを言っているの』
所長の言葉に、潮目とナギは顔を見合わせる。
『そのアイデア、悪くないわ。――今すぐ、火星で試しなさい』
「え……?」
「……ボス? 通信エラーでしょうか。今、火星と聞こえましたが」
『いいえ、聞き間違いではないわ』
通信画面の向こうで、所長が優雅に指を鳴らす。
すると、二人のヘルメットバイザーに、赤い惑星へ向かう軌道を示す航路図と、超高速宇宙船の搭乗者リストが映し出された。
そこには潮目とナギの名前がくっきりと記載されていた。
『チケットは手配済みよ。地上のヘリポートまで30分で移動しなさい。……遅れたら、置いていくわ』
ブツッ。
通信は、一方的に切られた。
荒野に、沈黙が下りる。
「…………」
「…………」
「な、ナギ君……いま、僕たち、火星に行くことになった……?」
「……のようですね。潮目さん、さっき踏んでたケーブルを早くまとめてください。あと30分しかありませんよ」
二人は顔面蒼白になりながら、人類史上最も慌ただしい撤収作業を開始したのだった。