水はブラックホールだった?体内の宇宙を探る、もう一つの臨界点
石と、水と、親父の話
「ナギ君。水って本当に大事だよね……」
ラボの片隅で、潮目は遠い目をして呟いた。手には飲み干されてカラカラになったマグカップが握られている。
「何を今更。潮目さん、そのカップも干上がってますよ。水分補給、足りてますか?」
ナギはサーバーから水を汲みながら、呆れたように言った。
「違うんだよ!いや、違わないけど!最近、うちの親父がさ、尿管結石で……」
「それは大変でしたね」
「超音波で石を砕く手術をしたんだけど、医者曰く『とにかく水を飲んでください』って。体の中で石ができるなんて、人体の神秘というか、地質学というか……」
「ただのミネラルの結晶化です。どちらかというと人体のバグです」
「まあそうなんだけど!でも、思ったんだ。僕らは水について、あまりに知らなさすぎるんじゃないかって。この地球で最もありふれた液体が、実は一番の謎を秘めているとしたら……」
「また壮大な話に。それで、何か面白いデータでも見つけたんですか?」
ナギが差し出した水の入ったコップを受け取りながら、潮目の目がキラリと光った。
「よくぞ聞いてくれた!これだよ、ナギ君!」
マイナス63℃の奇妙な水
潮目は興奮気味にタブレットを操作し、ディスプレイをナギに向けた。そこに表示されていたのは、難解なグラフと数式が並ぶ論文だった。
「過冷却水、つまり凍らずに液体のまま存在する氷点下の水の話さ。その振る舞いが、どうも普通じゃないらしい」
「普通じゃない、ですか」
「この一文に、その核心が詰まってるんだ!」
We also observed a rapid increase in the heat capacity indicating a critical divergence at 210 ± 8 K coincident with enhanced density fluctuations. These results suggest that our experiments have directly probed the vicinity of a critical point in supercooled water.
(我々はまた、密度ゆらぎの増大と同時に起こる210±8Kでの臨界発散を示す熱容量の急激な増加を観測した。これらの結果は、我々の実験が過冷却水における臨界点の近傍を直接探査したことを示唆している。)
出典: - Experimental evidence of a liquid-liquid critical point in supercooled water - Science.org
「……なるほど。摂氏に直すと約マイナス63℃。そのあたりで水の密度が急激に揺らぎ始めて、第二の『臨界点』が存在する証拠を見つけたと」
ナギは淡々と要約する。
「そう!普通の水が気体になる臨界点とは別に、液体から別の液体へと相転移するポイントがあるかもしれないってことさ!すごくない!?」
「まあ、理論上は予測されていましたから。ですが、この発見が何を意味するのか。一般向けには、こちらの解説の方がインパクトがあるかもしれません」
ナギはそう言って、自分の端末に表示された別の記事を潮目に見せた。
This discovery could reshape our understanding of water’s role in nature—and possibly even life itself.
(この発見は、自然界における、そしておそらくは生命そのものにおける水の役割についての我々の理解を再構築する可能性がある。)
出典: This hidden state of water could explain why life exists - ScienceDaily
「研究者の一人は、臨界点に近づくと分子の動きが劇的に遅くなる様子をまるでブラックホールのようだ、と表現しています」
「ブラックホール……!?」
潮目の目が、さらに大きく見開かれた。
生命は「液体のブラックホール」から生まれた?
「そうだよ、ナギ君!僕が言いたいのはそこなんだ!」
潮目は興奮して立ち上がり、ケーブルに足を引っかけてよろめいた。
「危ないですよ。で、何が言いたいんですか」
「つまりさ、この『液体のブラックホール』状態の水こそ、生命誕生の鍵だったんじゃないかってこと!」
「またSF的な飛躍を……」
「だって考えてみてよ!高密度の水と低密度の水が混在する不安定な状態。そこでは、あらゆる化学反応が予測不能な形で加速するはずだ!原始の地球で、アミノ酸が結合してタンパク質が生まれる瞬間、水はこの臨界点にあったのかもしれない!」
潮目は熱弁をふるう。
「……あり得ない話ではありませんね。特殊な環境が複雑な有機分子の生成を促したという仮説は、確かに魅力的です」
ナギも少しだけ、その突飛な仮説に耳を傾ける。
「だろ!?この臨界水の性質を応用できればさ、例えばラボトロニカの観測ドローンを超小型化できるかもしれない!高密度と低密度の状態をデジタル信号の0と1に見立てて、水分子自体をメモリにするんだ!液体コンピュータだよ!」
「液体コンピュータ、ですか。素晴らしい発想ですが、そのメモリを常にマイナス63℃以下で安定稼働させるための冷却システムの予算はどこから?」
ナギの冷静な一言に、潮目の動きがピタリと止まった。
「……ボスに相談、かな」
「却下される未来しか見えません」
一杯のコーヒーに宇宙を見る
潮目はしょんぼりと椅子に座り直し、先ほどナギが淹れてくれた水を一口飲んだ。
「まあ、そううまくはいかないか。でも、すごいことだよね」
「ええ」
「親父の体から出てきた石も、僕らが今飲んでるこの一杯の水も、元をたどれば全部同じH₂Oなわけだ。それなのに、条件が少し変わるだけで、まるで宇宙の果てにあるブラックホールみたいな振る舞いを見せるなんて」
潮目は窓の外に広がる、雨上がりの景色に目をやった。水たまりが、灰色の空を映している。
「当たり前すぎて、誰も気にも留めない。でもその中には、まだ僕らの知らない宇宙が広がっている……」
「データは美しいですが、長靴は泥だらけです。そろそろ午後の観測に出ないと」
ナギは立ち上がり、フィールドワークの準備を始める。
「……だね。行こうか」
潮目はコップの水を飲み干し、立ち上がった。
ありふれた風景の中に潜む深淵な謎。
彼らの観測はまだ始まったばかりだ。