量子コンピュータの「影」と、オーバーヒートした助手
静かすぎるラボと、熱暴走する精密機械
ラボに珍しい静寂が満ちている。
ソファにぐったりと横たわるナギの額には、タオルに巻かれた保冷剤...ならぬ冷却装置が乗っている。
普段の冷静沈着な姿は見る影もない。
「ナギ君、大丈夫ですか!?額の冷却シート、交換しますね!」
「……ありがとうございます。それ冷却シートというより、ペルチェの熱が出る側です。よけい加熱します」
「えっ、そうなんですか!?じゃあこっちの……あっ」
慌てて素子をひっくり返そうとした潮目は、見事にそのケーブルに足を引っかけた。
ガシャン、と大きな音が響く。
「……またケーブル踏んでますよ。潮目さん、その騒がしさ自体が、私にとってはノイズです」
「ご、ごめんなさい!連日の観測で、ナギ君の冷却系に負荷がかかりすぎたみたいで……」
潮目が申し訳なさそうにモニターへ視線を戻した、その時だった。
あるデータが彼の目に飛び込んできた。
「うわっ!ナギ君、これ!見てください!」
「……今は、何も見たくありません」
「いやいや、これは見ないと損ですよ!量子コンピュータの世界で、とんでもないブレークスルーが起きてます!」
量子の世界に現れた「影」
弱々しくため息をつくナギをよそに、潮目は興奮気味にディスプレイの情報を指し示した。
「ほら!ついに96量子ビットのもつれ状態の学習に成功したっていう論文です!」
「……96。中途半端な数字ですね」
「そこじゃないですよ!この論文を見てください!」
We experimentally demonstrate our protocol by learning entangled quantum states of up to 𝑁=96 qubits in a superconducting quantum processor. Our method upgrades classical shadows to large-scale quantum computation and simulation experiments.
(我々は、超伝導量子プロセッサにおいて最大N=96量子ビットのもつれた量子状態を学習することにより、我々のプロトコルを実験的に実証した。我々の手法は、古典的シャドウを大規模な量子計算およびシミュレーション実験へとアップグレードするものである。)
出典: Learning Mixed Quantum States in Large-Scale Experiments
「『古典的シャドウ』!まるで量子の幽霊を捕まえるみたいな名前!いやはや、素晴らしいデータです!」
「……潮目さん、その興奮で室温がまた上がりました。重要なのは、そこだけじゃありません」
ナギは億劫そうに自身のタブレットを操作し、関連ニュースの記事を表示させた。
The kind of tensor networks we use also include extensive information about the noise and decoherence affecting the system, making our protocol very useful to benchmark prototypical quantum computers and correct noise from their data.
(グルノーブル・アルプ大学、ミュンヘン工科大学、マックス・プランク量子光学研究所、インスブルック大学、ボローニャ大学の研究者らによる本研究で用いられるテンソルネットワークは、システムに影響を与えるノイズやデコヒーレンスに関する広範な情報も含むため、このプロトコルはプロトタイプの量子コンピュータの性能評価やデータからのノイズ補正に非常に有用である。)
出典: Phys.org Novel protocol reconstructs quantum states in large-scale experiments up to 96 qubits
不完全さこそが、道しるべ
「……この研究の肝は、ノイズへのアプローチです」
「ノイズ?量子コンピュータの弱点と言われる、あの?」
「はい。研究者たちは、こう考えました。『ノイズの多い系は、情報量が少ない。だから、解析も簡単なはずだ』と」
その言葉に、潮目の目の色が変わった。
「なるほど!逆転の発想ですね!まるで不鮮明な幽霊写真から、元の人物の姿を復元するみたいな……!もしかしたらこれ、異次元からのノイズ信号を解析して、パラレルワールドの存在を証明できるんじゃ!?」
「……あなたの思考回路も、かなりのノイズが混じっているようです。論文の趣旨は、もっと現実的な問題解決にあります」
熱っぽく語る潮目に、ナギが弱々しくも的確なツッコミを入れる。
「これは、不完全なデータからでも本質的な情報を抜き出す技術。……今の私のように、熱で正常な思考ができない状態からでも、正しい結論を導き出すようなものです」
「そ、そうか!それって僕たちのフィールド観測にも応用できませんか?例えば、豪雨の音に混じった微かな獣の足音だけを抽出して、生態調査をするとか!」
「……その発想は、悪くないですね。ラボトロニカの観測機材に組み込めば、悪天候下でのデータ精度が飛躍的に向上するかもしれません」
珍しくナギがアイデアに同調した。
その瞬間、潮目は何かを閃いた顔で工具箱に駆け寄った。
「よし!このノイズ補正アルゴリズムを応用して、ナギ君の冷却システムを最適化します!」
究極のノイズキャンセリング
潮目がドライバーと怪しげな基板を手に、ナギににじり寄る。
「これでナギ君のオーバーヒートという名の『ノイズ』を取り除いて、すぐにでもフィールドワークに……」
「……」
ナギは最後の力を振り絞るように、ゆっくりと身を起こした。
「……私が求めているのは、アルゴリズムではなく静かな休息です。これが、最も効果的なノイズキャンセリングですよ」
「そ、そうなの?」
そして、壁際にあるラボのメインブレーカーへと、ふらふらと歩いていく。
「あれ?ナギ君?」
バチンッ!
ラボの全ての電源が落ち、潮目の叫び声と完全な暗闇だけが残った。