フリン?――裏切りと再生のデータスケープ
静寂を破るゴシップの波紋
深夜のラボに、珍しく生活感のある音が響いていた。
ピッ、と電子音が鳴り、潮目が淹れたてのコーヒーを片手に分析ルームへ戻ると、助手のナギが静かにタブレットを見つめている。
その画面に映っているのは、どうやらドラマ仕立てのドキュメンタリーのようだ。男女が涙ながらに罵り合っている。
「珍しいね、ナギ君がそんな俗っぽいものを観ているなんて」
声をかけると、ナギは視線を画面に固定したまま、小さくため息をついた。
「社会観測の一環です。人間の複雑な感情アルゴリズムを理解するために」
「にしては、ずいぶん眉間にシワが寄ってるけど」
「…この男性の行動には、論理的な整合性が著しく欠けています。なぜ露見するような嘘を重ねるのか、理解に苦しむ」
どうやらナギは、浮気がバレて修羅場を迎えているドキュメンタリーの登場人物に、本気でやきもきしているらしい。
画面越しの『裏切り』と、再生の可能性
「まあ、人間関係なんてそんなものだよ。一度壊れた信頼は、もう元には戻らないのさ」
潮目がコーヒーをすすりながら言うと、ナギは初めて画面から目を離し、潮目の方を向いた。
「本当にそうでしょうか」
「え?」
「一度の致命的なエラーが、必ずしも関係性のデッドエンドを意味するとは限らない。そういうデータがあります」
そう言って、ナギはタブレットの画面を切り替え、メインモニターに一つの記事を転送した。
If they emerge with a new understanding of themselves, or of intimacy, or of betrayal, they’re then in a position to commit to fidelity. Some of the best marriages are (eventually) built that way.
(もし彼らが自分自身、親密さ、あるいは裏切りについて新たな理解を得て立ち直れば、その時こそ誠実さを誓えるようになるのです。最高の結婚生活のいくつかは、(最終的に)そのようにして築かれるのです。)
出典: Myths About Infidelity (Psychology Today)
「へぇ……。裏切りを乗り越えて、最高の結婚生活?」
潮目は意外そうにモニターの文字を追いかけた。
「にわかには信じがたい話だね」
エラーから生まれる、より強固なシステム
「まるで、一度壊れた観測機器を修理したら、前よりもっと高精度になった、みたいな話じゃないか!」
潮目の目に、いつもの探求心の光が灯る。
「あり得ますね。故障原因の解析とパーツの最適化によって、初期ロットよりも性能が向上することは」
「だろ! ってことは、人間の心も同じなのかも! 裏切りという名の致命的なバグを経験することで、関係性のOSがアップデートされて、より強固なセキュリティを構築するとか!」
潮目のSF的な妄想が始まった。ナギは呆れたように首を振る。
「飛躍しすぎです。この記事はあくまで心理的な成長と再構築について述べているだけです。潮目さんのPCみたいに、致命的なエラーで大抵のシステムは回復不能なクラッシュを起こします」
「うっ…手厳しいな」
「ですが」とナギは続けた。
「その『エラーからの自己強化』というコンセプトは、観測機器の開発において非常に重要です」
「というと?」
「例えば、過酷な環境で一度センサーを限界まで酷使する。その際に得られた膨大な破損データをAIが学習し、自律的に自己修復と設計強化を行う観測ドローン。……どうでしょう?」
「最高じゃないか! それがあれば、今まで行けなかった深海や火山の火口だって…!」
二人の妄想は、いつしか新しいガジェット開発の話で盛り上がっていた。
観測者に、死角なし
ひとしきり興奮した後、潮目はふと我に返ってコーヒーを一口飲んだ。
「まあ、でもさ。僕らラボトロニカの研究員には、あまり縁のない話かもしれないね」
「どういう意味です?」
ナギが不思議そうに首を傾げる。
「だって、僕とナギ君は観測におけるパートナーだろ? 僕を裏切って、他の研究者の助手になったりは…しないよね?」
潮目が少し不安げに尋ねると、ナギは数秒間、沈黙した。
「……それは、契約と仕様によります」
「ええっ!?」
慌てる潮目を見て、ナギは小さく口の端を上げた。
「それに潮目さん。そもそも浮気とは、パートナーが物理的に不在の状況で発生する確率が高い事象です」
「うん、まあそうだね」
「あなたの場合は、フィールドワークでもラボでも、私が常に全方位から観測、いえ……サポートしているので、時間的にも物理的にも不可能です」
「……」
「ご安心を。潮目さんには、死角はありません」
それは最高のサポート体制のようでもあり、完璧な監視体制のようでもあった。
潮目は、手の中のコーヒーが妙にぬるく感じられるのだった。