凍てつく宇宙の果てに、かすかな息吹を見つけた日
地球のため息が消えるころ
潮目はふと思った。
ラボの窓から見える青い空。この地球を包む大気は、地球の重力に完ぺきにとらえられているのだろうかと。
もしそうでないなら、水素のような軽い気体は少しずつ宇宙へ逃げ出していくはずだ。
長い、気の遠くなるような時間をかけて。
やがて、水も大気も失った赤い惑星のように。遠い未来、地球は火星みたいになってしまうのではないか。
「……なんて、考えすぎかな」
「壮大な心配ですね、潮目さん。その前に心配すべきは、30秒前から踏み続けているそのLANケーブルの方だと思いますが」
冷静な声に、潮目は慌てて足元を見た。
「うわっ!本当だ!ごめんナギ君!」
「思考に没頭するのは良いですが、物理的な接続を断たないでください。それで、地球の未来がどうしたんですか?」
「いやね、僕らのこの営みも、いつかは大気ごと消えてしまうのかなって思って。少し寂しくなっただけだよ」
「そうですか。では、失われる大気ではなく、新たに見つかった大気の話をしましょうか。ちょうど面白いデータが届いています」
冥王星の彼方からの便り
ナギがタブレットに表示したのは、凍てつくような宇宙の闇を背景にした、難解なグラフだった。
「え、何これ?新しい観測データ?」
「ええ。地球から遥か遠く、冥王星よりもさらに向こう側の天体の話です」
Here we report that a stellar occultation campaign performed on 10 January 2024 of the ~250-km-radius plutino (612533) 2002 XV93 reveals a refractive signature, indicating a thin atmosphere. We derive a surface pressure of 100–200 nbar, above the previous limits for other larger bodies.
(我々は、2024年1月10日に行われた半径約250kmの冥王星族天体(612533) 2002 XV93による恒星食観測キャンペーンが、薄い大気を示す屈折の痕跡を明らかにしたことを報告する。我々が導き出した表面気圧は100~200ナノバールであり、これは他のより大きな天体に対するこれまでの上限値を超えるものである。)
出典: Detection of an atmosphere on a trans-Neptunian object beyond Pluto : Nature Astronomy (配信元: Nature)
「うおおお!マジか!太陽系外縁天体に……大気を発見!?しかも冥王星以外で初!?」
さっきまでの感傷的な表情はどこへやら。潮目の目は少年のように輝いている。
「100ナノバールって、とんでもなく薄いけど……でも、ゼロじゃない!大気が、あるんだ!」
「ええ。そして、この発見がどれほど大きな意味を持つかについて、日本の国立天文台も非常に興味深い見解を発表しています」
太陽系外縁天体が活動性や変化のほとんどない世界だという従来の見方を覆した発見で、今後の追観測によりこの大気がどのようにして生まれたかを解明するとともに、今回のような機動的な多地点での観測によって、他の太陽系外縁天体でも大気の有無を調べていきたい
出典: 冥王星以外で初めて、太陽系外縁天体に大気を発見 : 国立天文台 (配信元: 国立天文台)
「『従来の見方を覆した』か……。いやはや、素晴らしいデータです!静的で、何も変化しない氷の世界だと思われていた場所に、まだ活動があったなんて!」
遠い星の息吹を聴く方法
潮目は興奮冷めやらぬ様子で、ラボの中をぐるぐると歩き回る。
「ナギ君!これはもう確定だよ!この星『2002 XV93』には、知的生命体がいるんだ!」
「……はい?」
「この薄い大気はね、彼らが築いた巨大な地下都市から漏れ出た排気ガスなんだよ!僕らと同じように、彼らも星の未来を憂いているのかもしれない!」
「その仮説を裏付けるデータはどこにもありません。論文では、天体の表面にある窒素やメタンの氷が、太陽からのわずかな熱で昇華して一時的に形成された可能性が指摘されています」
「うーん、そっちの方が科学的か……。でも、ロマンがないじゃないか!」
「ロマンもいいですが、まずは事実に基づいた観測が私たちの仕事です」
「わかってるよ!でもさ、この観測方法ってすごいよね。『恒星食』を利用して、星の向こう側にある大気の屈折を捉えるなんて」
「ええ。非常に繊細で、高度な天体観測技術です」
「もしこの技術を、僕らのラボトロニカの観測ドローンに応用できたらどうなると思う?」
「……と、言いますと?」
「もっと遠く!太陽系の外にある惑星の大気を、この方法で調べられるかもしれないってことさ!そこに生命の痕跡を示す酸素やメタンが含まれているかどうかも、わかるかもしれない!」
「……なるほど。系外惑星の生命探査、ですか。確かに、実現すれば画期的な観測になりますね」
潮目の突飛な発想に、いつもは冷静なナギの声も少しだけ弾んでいるように聞こえた。
いつか、星へ旅立つ君へ
静まり返ったラボに、サーバーの冷却ファンの音だけが響いている。
二人はモニターに映し出された、遠い天体の想像図を黙って見つめていた。
「いつかさ、僕らの子孫が、こういう星にまで旅をする時代が来るのかな」
「可能性はゼロではないでしょうね」
「地球から何十億キロも離れた星から、故郷の青い地球を眺めるんだ。僕がさっき心配したみたいに、いつか失われるかもしれない、あの美しい大気を思いながら」
「その頃には、私もバージョン30.0くらいにアップデートされているかもしれません。そして、潮目さんの玄孫(やしゃご)が踏んだケーブルを注意していることでしょう」
ナギの思わぬ冗談に、潮目はふっと笑った。
「はは、想像つくよ。……その未来、見てみたいな」
「ええ、私もです」
凍てつく宇宙の果てで見つかった、かすかな大気の知らせ。
それは、いつか星へ旅立つであろう未来の誰かに向けた、宇宙からのささやかなエールなのかもしれない。二人は静かに、そんなことを考えていた。