耳にした音は、生命の響きだった
聴こえる世界の、生命との共鳴
「うわぁ!またコーヒーこぼした…」
潮目がマグカップを派手にひっくり返し、ラボの静寂を破る。
「まったく潮目さん。そのドジっぷり、そろそろ記録に残すべきですね」
助手ナギが、ため息交じりにコーヒーのシミに目をやりながら、タブレットの画面を潮目に突きつけた。
「いやはや、ナギ君!そ、それは…」
潮目はコーヒーの海に沈みかけたマグカップから目を離し、タブレットの画面に釘付けになった。
その瞳には、知的な興奮が宿り始めていた。
美的嗜好は、時空を超える
「『人間は他の動物と音響的な好みを共有する』…!?」
潮目は勢い余って立ち上がったが、足元のケーブルにつまずきそうになった。
ナギがすかさず腕を掴んで支える。
「落ち着いてください。これは地球規模の市民科学実験の結果ですよ」
ナギは冷静にデータを読み上げる。
In this study, we show that humans share acoustic preferences with a range of animals, that the strength of human preferences correlates with that in other animals, and that humans respond faster when in agreement with animals.
(本研究では、人間は様々な動物と音響的な好みを共有していること、人間の好みの強さは他の動物の好みと相関関係にあること、そして人間は動物と意見が一致する場合に反応が速くなることを示す。)
出典: Science "Humans share acoustic preferences with other animals" (DOI: 1126/science.aea1202)
「動物自身が好む音を人間も好む傾向がある、と。これってチャールズ・ダーウィンの『美的嗜好』論が、動物にも当てはまるってことですよね! いやはや、素晴らしい!」
潮目は熱弁をふるう。
「これは人間と動物の共生を深める大きな一歩になり得ます」
「耳にした音の『美しさ』は、種を超えた普遍的なものなのかもしれませんね。想像するだけでロマンが掻き立てられます!」
仮説と現実の交差点
「でも潮目さん。もしこの『美的嗜好』が、単なる偶然ではなく、もっと深い生命のメカニズムに根差しているとしたら?」
ナギが、タブレットを操作しながらつぶやく。
「え、どういうことですか?」
「例えば特定の周波数やリズムに、生命体は心地よさを感じる、とか。それは、進化の過程で、生存や繁殖に有利な音を『心地よい』と感じるようにプログラムされてきた、と考えることもできます」
「おお!つまり、心地よい音は、生命の『調和』のサイン、と!」
潮目は、目を輝かせる。
「そう考えると、自然界の音、例えば鳥のさえずりや川のせせらぎが、私たちに安らぎを与えるのも納得できますね」
「でも、それはあくまで仮説ですよね。音楽をたくさん聴く人は動物の好みとの一致率がわずかに高まる、という報告もありますが、これは聴覚注意や弁別能力の強化が影響している可能性も指摘されています」
ナギは、現実的な視点から潮目のロマンをクールに論破する。
「なるほど…確かに、単純な『好き』だけでは片付けられない、奥深いメカニズムがあるのかもしれません」
潮目は、少し残念そうな顔をしながらも、ナギの指摘に頷いた。
「もし、この『生命の音響嗜好』をラボトロニカの観測機材に応用できたらどうでしょう? 動物のストレスサインを早期に検知したり、彼らが心地よいと感じる音で、より自然なインタラクションを促すデバイスを開発したり…」
「それは面白いですね!例えば、迷子の野生動物が発する『SOS』の音を、人間が本能的に『不快』と察知できるようなセンサーとか…」
「あるいは、絶滅危惧種が繁殖期に仲間を呼ぶための『求愛の音』を、人間が『美しい』と感じられるように変換するシステムとか!」
二人の妄想は、どんどん膨らんでいく。
夜空に響く、生命の歌
「我々も、ぜひ直接、このデータを観測したいですね! 今すぐにでも鳥のさえずりや虫の声データ群を収集です!」
潮目が立ち上がり、サバイバルバックパックに手を伸ばす。
「待ってください潮目さん。まずは機材のメンテナンスと、フィールドでの安全確保が最優先です。それに、このデータから得られる考察は、まだまだ深められます」
「考察といえば...」
ふと、我に返る潮目。
「?」
「噂で聞いたんですが、白波所長って、じつはとてつもない音痴らしくて」
意表をついた情報に、さすがのナギも驚愕する。
「え、ええ?」
「実はこのあいだ、ラボのデータをとりまとめていたとき、何年前かの忘年会の記録らしきものが出てきて」
「へえ」
「それによると、白波所長が珍しく酔ってしまって、それでマイクを手にして歌ったらしいんですが」
「はあ」
「歌い終えた頃には同席者が全員、どういうわけだか耳を抑えて倒れていたらしく」
「...さすがにそれはにわかに信じがたく。ですが興味が湧いてきました。まだ記録は消してないですよね」
「もちろん!」
盛り上がる研究室に、白波所長のヒールの音が近づいていることを、二人はまだ知らない。
もちろん研究室のドアが開いたことも。
モニターに釘付けになる二人の背後に、白波所長の影が迫りつつあったことも。