歩けばチャラ? 座りすぎ現代人のための、一万歩の贖罪
まさかの徒歩通勤とボスの御御足
「はぁっ、はぁっ……つ、着いた……」
ラボのドアに手をつき、肩で息をする潮目。
今朝の首都圏を襲った信号故障は、潮目の通勤ルートをものの見事に麻痺させた。
「お疲れ様です、潮目さん。そのスニーカー、賢明な判断でしたね」
冷静な声で出迎えてくれたのは、助手のナギだ。
「ナギ君! いやー、ホントにね! スニーカーで大正解だったよ。革靴で歩いてるサラリーマンの人たち、マジで大変そうだったもん」
「ええ、想像に難くありません。それにしても、です」
ナギはふと、窓の外に視線を移す。
「どんな状況でも、あの完璧な歩様を崩さないボスは本当にすごいですよね」
「え? 所長のこと?」
「はい。12cmのピンヒールでアスファルトを歩くあの一歩一歩に、人体の黄金比と物理法則のすべてが凝縮されているんです。あの腓腹筋からアキレス腱にかけてのラインは……」
突然始まったナギの熱弁に、潮目は若干たじろぐ。彼(彼女?)が時折見せる、白波所長への狂信的なリスペクトは底が知れない。
「あ、うん。すごいよね。まあでも、帰る頃には電車も復旧してるみたいだし、もう歩かなくて済むと思うとホッとするよ!」
潮目はそう言って笑い自分のデスクに向かった。
この時の潮目は、まだ知らなかった。本当のウォーキング・デッドは、夜にやってくるということを。
歩数こそがすべてを解決する?
「そういえばナギ君! 『歩く』で思い出したんだけど、こんな面白いデータを見つけたよ!」
モニターに表示したのは、スポーツ医学の専門誌に掲載された最新の研究だ。
「座りっぱなしの時間が長くても、歩数を増やせば死亡リスクが下がる?」
「そう! これ、すごくない!? つまり僕らみたいにデスクワークが多くても、毎日ちゃんと歩けばチャラになるってことだよ!」
Any amount of daily steps above the referent 2200 steps/day was associated with lower mortality and incident CVD risk, for low and high sedentary time. Accruing 9000–10 500 steps/day was associated with the lowest mortality risk independent of sedentary time.
(基準となる1日2200歩を上回る歩数は、座りがちな時間が短い場合でも長い場合でも、死亡率および心血管疾患(CVD)発症リスクの低下と関連していた。1日9000~10500歩を達成することは、座りがちな時間に関係なく、最も低い死亡リスクと関連していた。)
出典: Do the associations of daily steps with mortality and incident cardiovascular disease differ by sedentary time levels? A device-based cohort study : British Journal of Sports Medicine
「いやはや、素晴らしいデータです! 9000から1万歩か。よし、今日から毎日一万歩、歩くぞ!」
潮目がガッツポーズをすると、ナギは静かにもう一つのウィンドウを開いた。
「潮目さん、早とちりは禁物です。こちらの解説もご覧ください」
"This is by no means a get out of jail card for people who are sedentary for excessive periods of time, however, it does hold an important public health message that all movement matters and that people can and should try to offset the health consequences of unavoidable sedentary time by upping their daily step count."
(「これは、過度に座りがちな人々にとっての『刑務所からの出所許可証』では決してありません。しかし、すべての運動が重要であり、人々は避けられない座りがちな時間の健康への影響を、日々の歩数を増やすことで相殺しようと試みることができるし、またそうすべきだという重要な公衆衛生上のメッセージを保持しています」)
出典: It doesn’t matter how much you sit — walking more could lower your risk of death and disease : University of Sydney (配信元: ScienceDaily)
「あ……」
「『免罪符ではない』、と。あくまでダメージを軽減できるかもしれない、という話ですね。座りすぎが身体に悪いという事実に変わりはありません」
ナギの的確な指摘に、潮目のテンションは静かに着地した。
人類は歩くために生まれた
「そっかぁ……やっぱり楽して健康は手に入らないか」
「当然です。基礎代謝を上げ、血流を改善することが基本です」
「でもさ、このデータが示してることって、結局、人類はもっと歩くようにデザインされてるってことだよね!」
潮目は再び身を乗り出す。
「もしかしたら僕らの遠い祖先は、星から星へと歩いて渡ってきたのかもしれない! 重力に逆らうための遺伝子が、僕らの脚には眠ってるんだよ!」
「ゲノム解析の記録では、我々の祖先はアフリカ大陸を歩いて移動したとされていますが、宇宙遊泳の痕跡は見つかっていませんね」
ナギは潮目のSF的な妄想をバッサリと切り捨てる。
「だよなー。でも、この『歩数』っていう単純な指標が、健康とこれだけ強く結びついてるのは面白いよね。この歩行検知のメカニズム、ラボの観測機材に応用できないかな?」
「歩行検知、ですか」
「そう! 例えば、フィールドワーク用の自律型ドローンに、超高精度な歩数カウント機能を付けるんだ。僕らが一歩進むごとに地形データをマッピングして、消費カロリーや心拍数とリアルタイムで同期させる!」
「……観測者のバイタルデータと環境データを統合するデバイスですね。興味深い発想です」
「だろ!? これなら過酷な観測でも、安全マージンを正確に計算できる。プロジェクト名は『ラボ・ウォーカー』で決まりだ!」
「……上げて落とすようで申しわけありませんが、要するに豪華な万歩計ですよね? その開発予算の稟議、ボスは通してくれるでしょうか」
「うっ……」
潮目の妄想は、再び現実の壁にぶつかった。
終電、そして絶望の宣告
その日の夜。潮目はすっかり疲労困憊で、帰りの支度をしていた。
「さてと。今日は電車でゆっくり帰ろう。さすがにもう歩くのはごめんだ」
潮目がそう呟いた瞬間だった。
ブツン、とラボのメインスクリーンが起動し、見慣れた美しい顔が映し出される。白波所長からのビデオコールだ。
「しょ、所長! お疲れ様です!」
潮目は慌てて背筋を伸ばす。ナギも静かに一礼している。
『潮目、お疲れ様』
スピーカーから流れる、鈴の音のようにクールな声。
『あなたに、残念なお知らせがあるわ』
「は、はい?」
所長は、完璧な微笑みを浮かべたまま、残酷な事実を告げた。
『再び信号系統に大規模なトラブルが発生したそうよ。残念ながら、あなたの利用する路線は、今夜、完全に運行を停止したわ』
「…………え?」
潮目の思考が、フリーズする。
『今日のデータ、とても興味深かったわね。さあ、潮目』
画面の向こうで、所長は悪魔のように妖艶に微笑む。
『健康のために歩くことね。ラボのメイン電源は、こちらで遠隔でシャットダウンしておくわ』
「え、ちょ、まっ……!」
潮目の静止も虚しく、プツン、と通信が切れた。同時に、ラボの照明がすべて落ち、完全な暗闇が潮目らを包み込む。
「うわあああああああ!」
暗闇に響き渡る潮目の悲鳴。カチリ、と小さな音を立てて、ナギが予備電源のライトを点けた。
「潮目さん、これを」
差し出されたのは、一本のキンキンに冷えたエナジードリンクだった。潮目はそれを、泣きそうな顔で受け取ることしかできなかった。