昨日のヒーローが今日はなぜ凡人なのか?「認知精度」が生産性を支配する
調子の波と、ラボの昼下がり
ラボの大型モニターに映し出される、緑の芝生。潮目はマグカップを片手に、その試合結果をぼんやりと眺めていた。
「不思議ですよね、ナギ君」
「どうしたんですか、潮目さん。またコーヒーの配合を間違えた顔をしていますが」
隣でタブレットを操作していたナギが、顔を上げずに応える。
「いや、コーヒーは完璧ですよ!そうじゃなくて、プロ野球です。前のシーズンで首位打者だったバッッターが、次のシーズンだと信じられないくらい打てなくなったりするじゃないですか」
「…まあ、そういう現象はありますね」
「それどころか、昨日の試合で10点差つけて圧勝したチームが、今日は1点も取れずに完封負けしたり。この急激な『潮目』の変化、一体なんなんでしょうね」
潮目の言葉に、ナギはピタリと指の動きを止めた。
「その『潮目』。…私も少し、興味があります」
珍しくナギが食いついた。その目はモニターの奥にある、見えないデータの海を見つめているようだった。
脳内に潜む「秘密の1時間」
「潮目さん。その『日による波』について、ちょうど面白いデータを見つけました」
ナギがタブレットをスワイプすると、モニターにひとつのニュース記事が映し出された。
「ほうほう?どれどれ…」
A sharper mind today could secretly add nearly an hour to your productivity.
出典: The surprising reason you’re so productive one day and not the next : University of Toronto (配信元: ScienceDaily)
「シャーパーマインド…冴えてる頭ってことか!それが秘密裏に生産性を1時間も追加する!?マジですか!」
「ええ。キャッチーな見出しですが、元になった論文のデータはもっと興味深いですよ」
そう言ってナギが表示したのは、無数の数式とグラフが並ぶ、いかにも難解な論文のページだった。
A one-standard-deviation change in cognitive precision had an effect statistically equivalent to ~40 min of work, with similar or larger predictive effects compared to fluctuations in mood/motivation and no moderation by trait-level self-control or conscientiousness.
(認知精度の1標準偏差の変化は、統計的に約40分の仕事に相当する効果を持ち、気分やモチベーションの変動と比較して同等かそれ以上の予測効果があり、特性レベルの自己制御や誠実さによる調整はなかった。)
出典: Day-to-day fluctuations in cognitive precision predict the domain-general intention-behavior gap : Science Advances
「うわっ…!でも、こっちだと約40分って書いてありますね。それでもすごいけど」
「重要なのはそこではありません、潮目さん。『気分やモチベーションの変動』とは別の要因だという点です」
「やる気の問題じゃないってこと!?」
潮目は身を乗り出した。これは、ただの精神論では片付けられない話らしい。
その正体は「脳の解像度」
「認知精度…コグニティブ・プレシジョン、か。つまり、脳の解像度みたいなものですかね!?」
潮目の目に、いつもの探究心の光が灯る。
「日によって僕らの頭脳は、4Kディスプレイになったり、砂嵐のアナログ放送になったりする…。そういうことですよね!」
「…たとえはともかく、解釈としては、まあ、そうですね」
「だとしたら、これはもう超能力の領域ですよ!試合の前日に『明日は俺の脳、8Kになれ!』って強く念じれば、ホームランが打てるようになるのでは!?」
潮目が拳を握りしめるが、ナギは静かに首を横に振った。
「残念ながら、論文では気分や自己制御とは無関係だと示唆されています。念じるだけでは、解像度は上がらないでしょう」
「ぐっ…じゃあどうすれば。この『ゆらぎ』に僕らはなすがままなんですか?」
「いいえ。コントロールはできなくても、観測はできるかもしれません」
ナギはそう言うと、ラボの片隅に置かれた観測ドローンの設計図をモニターに映した。
「もし、この『認知精度のゆらぎ』をリアルタイムで計測できるセンサーを開発できたら?例えば、ドローンのパイロットの認知精度を常時モニタリングするんです」
「なるほど!精度が落ちてきたら、事故を起こす前にAIが操縦を代わる…とか?」
「その通りです。ヒューマンエラーが起きる『潮目』を、事前に予測する。ラボトロニカの新しい観測システムに応用できるかもしれません」
潮目の顔が、ぱあっと明るくなった。
自分たちの研究が、また新しい風景に繋がりそうだ。
4番でエースの潮目さん
「よし!決めた!僕も自分の認知精度を極限まで高めて、最高のパフォーマンスを発揮してみせますよ!」
潮目がガッツポーズで宣言する。
その姿を、ナギは冷めた目で見つめていた。
「そうですか」
ナギは静かに続ける。
「では、まずは今日の実験レポートで、その認知精度の高さとやらを証明して見せてください」
「もちろん!」
「期待していますよ、潮目さん。打ってはホームラン級の分析を連発し、投げては10個の新たな発見(10奪三振)を記録する、唯一無二のスーパースターの潮目さんを」
その完璧すぎる要求に、潮目は「うっ…」と固まった。
ラボの昼下がり。どうやら潮目にとっての厳しい「潮目」は、今まさに始まったばかりのようだった。