奇妙な隣人、カモノハシの毛が語る進化のバグ
いつもと違う助手
ラボには珍しく、穏やかな静寂が流れていた。
潮目は新しい観測データを整理しながら、ふと背後の気配がないことに気づく。いつもなら「潮目さん、またケーブル踏んでますよ」なんていう、的確なツッコミが飛んでくる頃合いだ。
「ナギ君?」
声をかけても返事がない。振り返ると、助手のナギが自席でじっと何かを見つめていた。その手には、デフォルメされたカモノハシのキーホルダーが揺れている。
「……可愛いでしょう。この扁平なくちばし、水かきのある足、そしてビーバーのような尾。矛盾だらけの存在。完璧です」
「え、あ、うん。可愛い……ね。というか、そんなの持ってたんだ」
ナギはうっとりとした表情でキーホルダーを撫でている。その様子は、いつもの冷静沈着な彼女からは想像もつかない。
潮目は、床に転がったままの空のコーヒーマグを見て、小さくため息をついた。
(まあ、いいか。僕がしっかりすれば、ナギ君のサポート負担も減らしてやれるわけだし……)
少しだけ観念して、自分でマグカップを片付け始めた、その時だった。メインスクリーンに、ある論文のアラートがポップアップした。
哺乳類の皮をかぶった鳥?
「ん? なんだこれ……カモノハシの毛に、ユニークな中空メラノソーム形態?」
潮目が思わず声を上げると、さっきまでキーホルダーに夢中だったナギが、弾かれたように顔を上げた。
「潮目さん、そのデータ、詳しく見せてください」
「お、おう。いやはや、これは興味深いですよ! 論文によると、こんなことが書いてあります」
Here, we present the first description of hollow, spherical melanosomes in mammals, from the hairs of the platypus (Monotremata: Ornithorhynchus anatinus).
(本研究では、哺乳類において初となる中空で球状のメラノソームを、カモノハシ(単孔目:Ornithorhynchus anatinus)の毛から発見したことを報告する。)
出典: A unique hollow melanosome morphology in the hairs of the platypus : Biology Letters (配信元: Royal Society Publishing)
「哺乳類なのに、中空のメラノソーム!? なにそれ、どういうこと!?」
潮目が興奮気味に叫ぶと、ナギはすでに手元の端末で関連情報を引き当てていた。そのスピードは、カモノハシへの愛ゆえか、いつもより明らかに速い。
「ええ。そして、その特徴がどれだけ奇妙なことか、こちらのニュースが補足してくれます」
It is the only mammal that has hollow structures of the pigment melanin, a trait normally found in birds, biologists said in a new study on Wednesday.
(生物学者が水曜日に発表した新しい研究によると、それは色素メラニンの中空構造を持つ唯一の哺乳類であり、この特徴は通常、鳥類に見られるものである。)
出典: Platypus even weirder than thought, scientists say : Phys.org (配信元: Phys.org)
「え、鳥……? ってことは、カモノハシの毛って、実は鳥の羽と同じような構造を持ってるってこと!?」
「その通りです。まったく、どこまで私たちの常識を覆せば気が済むんでしょうか、この生き物は」
ナギは呆れたような口調とは裏腹に、その口元はかすかにほころんでいた。
その毛は、世界を欺くステルス迷彩か
「いや待てよナギ君! 中空構造ってことは、軽くて断熱性が高いだけじゃないかもしれないぞ!」
潮目の知的なスイッチが入る。彼はモニターに映し出されたメラノソームの電子顕微鏡写真を拡大した。
「この球状の空洞……もしかしたら、光を特殊な方法で散乱・屈折させるための構造、つまりフォトニック結晶のような役割を果たしているんじゃないか!? カモノハシの毛、実は高度な光学迷彩なのかも!」
「潮目さん、そのSF的な妄想、嫌いじゃないですが落ち着いてください」
ナギは冷静にキーボードを叩き、別のデータを表示させる。
「論文では構造色や断熱性の可能性が示唆されていますが、光学迷彩というのは飛躍しすぎです。鳥類の羽毛にも見られる構造ですから、おそらくはもっと現実的な目的でしょう」
「現実的な目的?」
「はい。例えば、軽量化による遊泳能力の向上。あるいは、水辺での効率的な体温維持や、有害な紫外線からの保護。そのために特定の波長の光を効率よく吸収、あるいは反射する仕組みだと考えるのが妥当です」
「そっかー、地味だけど、そっちのほうが説得力あるかあ……」
がっくりと肩を落とす潮目。だが、彼はすぐに何かを閃いたように顔を上げた。
「でもさ、このメカニズム、ラボトロニカの観測機材に応用できないかな? 例えば、新しいフィールド観測ドローンの外装とか!」
「ドローンの外装、ですか」
「そう! この中空メラノソーム構造を模倣した素材でボディを作れば、超軽量化できるし、バッテリー消費も抑えられる。それに、特定の光を反射させて、観測対象の野生動物から見えにくくするステルス性も……!」
潮目のアイデアに、ナギは少しの間、沈黙した。そして、静かに頷く。
「……その発想は、悪くないですね。外殻をこの構造で3Dプリントすれば、機体重量を削減しつつ、観測対象への環境負荷を最小限にできるかもしれません」
ナギは再び、手元のキーホルダーに目を落とした。
「……さすがはカモノハシです。その存在自体が、イノベーションの結晶……」
その横顔は、もはやただの助手ではなく、一人の敬虔な信者のようだった。
データと風景のあいだで
「しかしナギ君、今日は本当にカモノハシ愛がすごいね」
潮目が苦笑しながら言うと、ナギは静かに顔を上げて答えた。
「……潮目さん。データは美しい。ですが、カモノハシは、それ以上に美しいです」
きっぱりと言い切るナギに、潮目はもう何も言えなかった。
珍しく意見が一致した二人は、それぞれのディスプレイに向き直る。そこに映るのは、奇妙で、矛盾に満ちていて、そしてどこまでも愛すべき隣人のデータ。
二人は静かに、その深淵へと没頭していく。ラボの窓の外では、いつの間にか東の空が白み始めていた。