【凍ってなくても液体が割れる!?】|こぼれたコーヒーと幻覚のワルツ

休日ラボと割れたコーヒー
連勤による疲労が、潮目の肩にずっしりと重くのしかかっていた。
今日は待ちに待った休日のはず。だが、家にいても特にやることはない。スモモの収穫はとっくに終わってしまったし、静かな部屋はかえって落ち着かなかった。
気づけば、潮目の足はラボに向いていた。
「……あれ、潮目さん。今日は休日では?」
がらんとしたラボでは、ナギが黙々と機材のメンテナンスを行っていた。
「やあ、ナギ君。うん、まあね。なんとなく来ちゃった。目覚ましのコーヒーでも淹れようかなって」
慣れた手つきでコーヒーを淹れ、マグカップを片手にデスクへ向かう。その時だった。蓄積した疲労が指先の感覚を鈍らせたのか、つるりとカップが手から滑り落ちそうになる。
「うわっ、と!」
ヤバい。潮目は咄嗟に、こぼれ落ちる液体をもう片方の手で受け止めようと、超高速で手を動かした。
その刹那、重力に従って流れるはずの黒い液体が、まるでガラスのように一瞬、ピシリと割れたような気がした。
「あっぶな……」
なんとかカップは床に落ちずに済んだ。しかし、潮目は自分の手元で起きた不可解な現象に呆然と立ち尽くす。
「潮目さん。掃除の仕事を増やすのはやめてください」
「……ナギ君」
「なんです?」
冷静なナギの声に、潮目はまだ信じられないといった様子で問いかける。
「今、コーヒーが割れなかった?」
「カップですか? 幸い割れてないようですが」
「そうじゃなくてコーヒーが、つまり、流体が」
ナギは大きなため息をついた。
「疲れすぎです。暇かもしれませんが、さっさと帰って寝てください。7時間以上ね」
「いやいや、そうじゃなくて! 確かに一瞬、液体に亀裂が入ったんだ! 本当なんだって!」
コーヒーの中に潜む、固体への変貌
「絶対におかしい! あれはただの錯覚じゃない!」
潮目は猛烈な勢いでキーボードを叩き、論文データベースを検索し始めた。ナギは呆れたようにその様子を眺めている。
「あった! これだ! やっぱり僕は幻覚を見ていたわけじゃなかったんだ!」
潮目が興奮してモニターを指差す。
「ほう。どれですか」
ナギが潮目の背後からモニターを覗き込むと、そこにはScienceDailyの記事が表示されていた。
Under extreme stress, even ordinary liquids can snap like solids—rewriting the rules of fluid physics.
(極度のストレス下では、ごく普通の液体でさえ固体のようにパキンと割れることがある――流体物理学のルールを書き換える発見だ。)
出典: Scientists stretched a liquid and it snapped like a solid : Drexel University (配信元: ScienceDaily)
「ほら! 『液体でさえ固体のようにパキンと割れる』って書いてある!」
「ふむ……。元論文も見てみましょうか。潮目さん、その手の動きを止めてください。はい、こちらですね」
ナギは数回のキー操作で、大元の一次論文をディスプレイに表示させた。
Here, we present direct experimental evidence of solidlike fracturing in hydrocarbon blend liquids whose 𝐺′′ is an order of magnitude greater than 𝐺′ for the rates probed.
(本研究では、調査した変形速度において損失弾性率G′′が貯蔵弾性率G′よりも1桁大きい炭化水素ブレンド液体において、固体のような破壊が起こる直接的な実験的証拠を提示する。)
出典: Unexpected Solidlike Fracture in Simple Liquids : Physical Review Letters (配信元: American Physical Society)
「うっ……専門的すぎて一瞬で眠気が……。でも、やっぱり液体が固体みたいに振る舞うってことだよね!」
「ええ。特定の条件下で、液体が粘性よりも弾性を示すようになり、固体のように破断する、と。そういうことのようですね。要するにこれ、」
- 通常の液体
引っ張ったり力を加えると、分子同士が滑り合って形を変え、「流れる」ことで力を逃がします。
- 限界を超える超高速の引っ張り
しかし、液体の分子が動いて力を逃がすスピード(限界時間)よりも、はるかに速いスピードで一瞬にして強い引っ張り力を加えます。
- 流れるのを諦める
すると、液体の分子は動いて形を変えるヒマがなくなり、「流れる」という反応が追いつかなくなります。
- 固体のように割れる
流動性を失った液体は、一瞬だけガラスや金属のような「固体」として振る舞い、逃げ場を失った力が一点に集中してパキッと鋭く割れて飛び散るのです。
「ほほう...」
「液体が流れて逃げるヒマを与えないほどの超高速で衝撃を与えると、液体は一瞬だけ固体になって砕け散る、という流体力学の限界を示した現象です」
人類を超越する手さばきの証明
「面白そうな話をしているわね」
凛とした声に、潮目とナギは凍り付いた。いつの間にか、背後に白波所長が立っていた。
「所長! い、いつからそこに!?」
「あなたのコーヒーが割れた、というあたりからよ。それで? 潮目。あなたはその論文に書かれている『極限状態』を、素手で再現したと主張するの?」
所長の鋭い視線が潮目を射抜く。
「えっ? あ、いや、その……」
「この論文によると、現象が確認されたのは液体を秒速数メートルの速度で引き伸ばした時、ですね。潮目さんがこぼしかけたコーヒーを止めた手の速度は、それを遥かに上回っていたと?」
ナギが冷静に分析データを付け加える。
「つまり、潮目はコーヒーが落下する僅かな時間、指先から衝撃波でも発生させて液体を強制的に引き伸ばし、固体化させたということかしら。恐るべき手さばきね。人類を超越しているわ」
学生時代は実戦空手をやっていた白波所長である。それがどれほどのものか自身がよく知っているのである。
「もしそうなら、潮目さんの指先の動きは、観測機材のフレームレートでは捉えきれない速度に達している可能性がありますね、ボス」
「そうよね。これはもしかしたら、潮目はとてつもない素材、いえ、逸材ということになるかしら」
「素材?ってところが引っかかりますが、それはそれとして、すごい! 僕にはそんな超能力が!」
だが、冗談めかした潮目に返ってきたのは、白波所長とナギの真剣な眼差しである。
「な、なんですお二人とも。冗談ですよ、僕がそんなスーパーマンなわけないです!」
「あら、残念。ラボトロニカの観測技術に応用できるかと思ったのだけれど」
所長は心底つまらなそうにため息をついた。
そして被験体(モルモット)へ
「まあ、普通に考えれば、連勤明けの潮目さんが見た幻覚と考えるのが妥当でしょうね」
ナギが淡々と結論づける。
「そうよ。疲労は脳に様々なバグを引き起こすわ。潮目はさっさと帰って……」
「でも...」
潮目は食い下がった。
「あの、コーヒーがパキッと割れた瞬間、あれって妙にリアルだったんですよね。幻覚というにはあまりにも感触が、その、なんというか...」
その言葉に、白波所長とナギが顔を見合わせ、不気味に微笑んだ。
「あなたがそう主張するのなら、話は別よ」
「え?」
「つまり、潮目さんの脳か、あるいは身体には、常人にはない未知の知覚能力、あるいは物理法則を捻じ曲げる能力が備わっている可能性がある、ということになりますね」
ナギが冷静に、しかし楽しそうに言う。
「ナギ、すぐに潮目の全身スキャンの準備を。脳波、神経伝達速度、動体視力、身体組成、遺伝子情報。全てのデータを洗い出すわ。こんなに面白い研究対象(モルモット)、滅多にいないわよ」
「了解しました、ボス。まずは拘束具と鎮静剤を用意します」
「え、え、ちょ、ちょっと待って! 何言ってるんですか二人とも! 冗談きついですよ!」
じりじりと後ずさる潮目に、所長とナギがゆっくりと詰め寄ってくる。その目は、獲物を見つけた捕食者のようにギラついていた。
「ナギ、対象の逃亡を防ぎなさい。研究所のすべての隔壁を封鎖よ」
「はいボス」
ナギがコンピュータを操作し、ラボのセキュリティ設定画面を表示する。
「夢、そう、全ては夢なんです。液体が割れた感触なんて分かるわけないですよ。そうです夢をみたんだナギくん。じゃ、寝に帰ります」
潮目は乾いた笑いを浮かべると、脱兎のごとくラボの閉まり始めた隔壁をすり抜けて逃げ出した。
再び静寂が戻ったラボで、白波所長が締めの一言。
「逃げるスピードも音速並みね。ナギ、隔壁のロックを解除しなさい。それと……あいつが叩き割ったコーヒーの飛散データ、念のためバックアップをとっておきなさい」
白波所長の目に、鋭い光が宿ったままなのを、ナギは見逃さなかった。
