【匂いのデータ化は可能か?機械学習による香り再現】|失恋の雨とコーヒー豆が奏でる追憶のワルツ

すべては一杯の失敗から始まった
ラボに、芳醇なコーヒーの香りが満ちている。
しかし、その香りの主である潮目研究員が手にしているマグカップの中身は、なぜか麦茶だった。
彼はうっかり、コーヒーを飲み干した後のマグカップにそのまま麦茶を注いでしまったのだ。コーヒー風味の麦茶。そのささやかな失敗は、しかし彼の探究心に火をつけた。
「完璧な淹れたてコーヒーの香りの黄金比とは何だ!?」
そう思い立った潮目は、わざわざネット通販で高価そうな世界各国のコーヒー豆を複数取り寄せ、壮大なブレンド抽出実験を開始したのである。
デスクの上には、ブラジル、エチオピア、グアテマラと書かれた豆の袋がずらりと並び、もはやラボというよりは専門店の様相を呈していた。
「……」
潮目の奇行を横目に、助手のナギは何も言わない。
じつは現在、「臭いの機械学習」をテーマとした調査業務の真っ最中。香りにうるさいコーヒー愛好家たちを満足させられるシステムの構築は、まさにその業務の一環と言えなくもなかったからだ。
「うーん、このモカの酸味とマンデリンの苦味……配合比率は7:3が近いか? いや、もっと奥深いフローラルな香りが……」
実験は、意外にもそこそこ成果が出そうだった。その時である。
女王の降臨とデジタルの嗅覚
カツン、と静かなラボにハイヒールの音が響いた。
その音だけで、潮目の背筋は凍りつく。ナギもまた、すっとキーボードから指を離した。
「……ずいぶん、香ばしいことになっているわね」
いつの間にか背後に立っていたのは、ラボの最高責任者、白波所長その人だった。彼女は美しい眉をひそめ、潮目のデスクにずらりと並んだ様々なコーヒー豆の袋を眺める。
「しょ、所長! これはですね、その、香りのマッピングに関する基礎研究でして!」
「サンプルが潮目の嗜好品に偏りすぎてるようにしか見えないけれど?」
「ボス。現在、嗅覚情報のデジタル化に関する論文を調査中です。潮目さんの実験は、その定性的な検証プロセスに該当します」
冷静なナギのフォローに、所長は「ほう」と興味深そうに目を細めた。
「ちょうど、関連する興味深いデータが」
そう言ってナギがメインモニターに表示したのは、2つの論文データだった。
An ensemble, retaining only olfactory semantic features for each model included, further improved predictions, raising the Pearson correlation by 7% to 0.61 on the test set and by 15% to 0.54 on the validation set. Given that semantic features were extracted from pure molecules, it suggests that mixture perception may not require fundamentally different representational principles from single-molecule olfaction.
(含まれる各モデルの嗅覚的な意味的特徴のみを保持したアンサンブルは、予測をさらに改善し、テストセットでのピアソン相関を7%向上させて0.61に、検証セットでは15%向上させて0.54にした。意味的特徴は純粋な分子から抽出されたことを考えると、これは混合物の知覚が単一分子の嗅覚と根本的に異なる表現原理を必要としない可能性を示唆している。)
出典: A reproducible framework for quantitative prediction of odor mixture perception : Proceedings of the National Academy of Sciences (配信元: PNAS)
「まさに僕がやろうとしていたことの核心部分!」
「補足情報はこちらを」
The work provides a validated metric and benchmark for comparing smells, laying a foundation for technologies such as digital olfaction, the ability to digitize scents, said study co-author Joel Mainland, a member of the Monell Center.
(この研究は、匂いを比較するための検証済みの指標と基準を提供し、匂いをデジタル化する能力であるデジタル嗅覚などの技術の基盤を築くものである、と研究の共著者でモネル化学感覚センターのメンバーであるジョエル・メインランド氏は述べた。)
出典: Mapping complex odors could be easier with machine learning : Phys.org (配信元: Phys.org)
その技術、コマセにも応用できるわね?
潮目は「デジタル嗅覚」という言葉に目を輝かせた。
「やはり素晴らしい。香りすらもデジタルで再現できる時代なんですよ! 僕の昔の失恋の日の『雨上がりのコンクリートの匂い』もデータ化できますね!」
「感傷に浸るのは結構ですが、潮目さん。重要なのは『混合物の知覚は、単一分子の嗅覚と根本的に異なる原理を必要としない』という部分。つまり、複雑な香りも基本要素の組み合わせでマッピングできる可能性を示唆しています」
「ということは、僕の失恋の日の匂いも……?」
「ジオスミンとアスファルト由来の揮発性有機化合物の比率、それに大気中の湿度と微粒子のデータを組み合わせれば、ある程度の再現は可能でしょうね」
夢のないナギの解説に潮目が少し肩を落とした、その時だった。
「潮目」
静かな声に、潮目はびくりと体を震わせる。
「その匂いのマッピング技術、他の有機物にも応用できるわね?」
彼女はコーヒー豆の袋の一つを、白魚のような指先でつまみ上げる。
「そうね、例えば……」
少し考えてから、所長は蠱惑的な笑みを浮かべた。
「集魚剤、要するにコマセね。その、集魚効果の高い匂いの黄金比とか」
「コマセですか……?」
「ボス、何か個人的な趣味のデータが混ざっていませんか?」
ナギの冷静なツッコミに、所長は「ゴホン」と一つ咳払いをした。
黄金比の行方
「趣味も興味も、新たな技術開拓のきっかけになるものよ。こらそこ、呆れない」
「はあ」
「考えてもみなさい、海水温、潮汐、季節に加えて、匂いのパラメータが魚の食性と密接な関連性をもっているとしたら? 養殖魚業者にとっては大きな意味を持つわ。従来の養殖用の餌って、小魚等を加工したものよ。その小魚が世界的に減少しつつある。養殖が成り立たなくなったら食の危機よ。いずれ昆虫を養殖するなどして飼料の代用材料が必要になる。でも未知の材料を魚が食うかしら? そこで魚が好む匂いの配合を、この技術で高い精度で絞り込むことができたらどうかしら。トライアンドエラーをせず、匂いのデータベースから最短で有効な集魚剤、もとい、養殖用の餌を作れるようになるかもね。餌の開発費用のコストダウンがねらえるわ」
「な、なるほど、その視点は気が付きませんでいた」
「この件は有望な結果が出ることを期待したいわね。引き続き調査を頼むわね」
そう言い残すと、彼女は優雅にヒールを鳴らしてラボを去っていった。
嵐のような視察が終わり、静寂が戻る。潮目とナギは顔を見合わせた。
「……所長、次の週末に釣りに行きたいのかな」
「さあ、どうでしょう。今晩に夜釣りに行くのかもしれません」
潮目は再びコーヒー豆のブレンド作業に戻ろうとして、ふとあることに気づいた。
「あれ……? ナギ君、なんだか、どの豆の袋もさっきより少しだけ減ってないかい?」
デスクに並んだ各サンプル袋の中身が、ほんの僅かずつ、しかし確実に減っていた。
「……気のせいでは?」
「そうかなあ……」
ラボには再び、芳醇なコーヒーの香りだけが静かに満ちていた。いつの間に、そして誰がつまんだのか。真実は、風に乗って去った女王の残り香の中である。
