日本米、ハワイへ渡る。データが示す「新しい故郷」の可能性
ふわりと香る、白米と所長
ふわり、と。
ラボトロニカの無機質な空気に、似つかわしくない優しい香りが漂った。炊きたての白米の香りだ。
「……ん? この匂い、なんだ?」
コーヒーの染みがついたデスクで、潮目は鼻をひくつかせる。
「潮目さん、ボスの気配です。10秒前にゲートを通過」
ナギが冷静に告げた瞬間、研究室の自動ドアが静かに開いた。
そこに立っていたのは、黒髪を揺らし、寸分の隙もないスーツを着こなした白波所長。その手には、ラップに包まれた、真っ白な塩むすびが握られていた。
「しょ、所長!? どうしてここに……というか、おにぎり?」
「昼食よ。何か問題でも?」
所長は優雅な手つきでおにぎりを一口。潮目とナギは、その珍しい光景に凍り付く。
「いえ、滅相もございません! 所長が炭水化物を摂取されるイメージがなかったので……」
「親戚が米農家で、お米はたくさんあるの。物心ついてから、自分でお米を買ったことがほとんどないわ」
「へえ! そうだったんですか!」
「ええ。でも、その親戚も最近は大変みたい。豊作なのに価格が下がって、後継者もいない。さすがに私が後を継ぐわけにもね。……日本の農業は、どこへ向かうのかしらね」
所長の美しい横顔に、ふと憂いの色が浮かぶ。
そして彼女は、おにぎりを食べ終えると、何でもないことのように続けた。
「そんなことを考えていたら、面白いデータを見つけたの。あなたたちにも見せてあげる」
ラボに投影された、常夏の島の収穫データ
所長が指を鳴らすと、メインモニターに一つの論文が投影された。
「これ、見てみなさい。私たちの食卓と、無関係な話ではないわ」
潮目はゴクリと喉を鳴らし、モニターに食い入った。
The grain yield of Koshihikari and Hitomebore in Hawai‘i reached 3.79–4.01 t ha−1, which was comparable to the yields obtained in Japan (3.89–4.16 t ha−1), despite a markedly shorter growth duration.
(ハワイにおけるコシヒカリとひとめぼれの収量は3.79~4.01 t ha-1に達し、著しく短い生育期間にもかかわらず、日本で得られた収量(3.89~4.16 t ha-1)に匹敵した。)
出典: Comparative analysis of yield formation and grain quality of Japanese rice cultivars under upland cultivations in Hawai‘i and Japan : Front. Agron.
「ええっ!? ハワイでコシヒカリとひとめぼれが? しかも日本と同じくらいの収量!?」
潮目が声を上げる。
「生育期間が短い、という部分がポイントですね。これはつまり、単位時間あたりの生産性が高いことを示唆します」
ナギが冷静に補足した。
「ええ。そして、話はそれだけで終わらないわ。ナギ、関連ニュースを」
「はい、ボス」
ナギがキーボードを数回叩くと、別の記事が表示された。
Beyond Hawaiʻi, these insights offer a blueprint for sustainable agriculture in other island nations facing food insecurity, as well as in regions worldwide adapting to the agricultural challenges posed by water scarcity.
出典: Rice farming revival in Hawaii? Japanese cultivars yield surprising success : Phys.org
アロハ・スピリットと水問題のあいだ
「なるほど……ハワイでの成功は、他の食糧不安に悩む島国や、水不足の地域にとっての設計図になる、と……」
潮目は腕を組み、唸った。
「これは壮大な話になってきましたよ! きっとハワイの太陽と、陽気なアロハ・スピリットがお米を元気に育てたんですよ! 大地のマナが凝縮されて……」
「潮目さん。論文では日長や温度といった環境要因への適応が考察されています。スピリチュアルな要因は観測されていません」
ナギがピシャリと潮目のロマンを斬る。
「だよなあ……でも、すごいことには変わりない! 今まで米作りに向かないとされてきた土地でも、日本の品種が活躍できるかもしれないってことですよね?」
「はい。特に『upland cultivations』、つまり水田ではない畑のような場所での栽培という点が重要です。これは水資源を大量に必要とする従来の稲作の常識を覆す可能性があります」
「うおお、燃える! もしこの短期間生育のメカニズムを解明できたら……僕たちの観測ドローンのバッテリーに応用できませんかね? 超速チャージで長時間稼働できる、みたいな!」
「稲の代謝プロセスとリチウムイオンバッテリーの化学反応を同一視するのは非科学的です。ですが、その省エネルギーで高効率な生命活動の原理をバイオミミクリーとして応用する、という発想は興味深いですね。検討の価値はあります」
「だろ! Labotronica Mark-Vは、お米パワーで飛ぶんだ!」
二人の議論が白熱するのを、白波所長は静かに、だがどこか満足げに見つめていた。
ラボに残された、かすかな残り香
「……議論はそこまでよ」
凛とした声が、二人の空想を現実へと引き戻す。
「潮目、あなたのその発想の飛躍は、時に面白い仮説を生むわ。ナギ、あなたはそれを的確に軌道修正する。……いいコンビね」
所長はそう言うと、ふわりと立ち上がった。
「この件、もう少し深掘りしてレポートにまとめなさい。期待しているわよ」
それだけを言い残し、彼女はヒールを鳴らして出口へ向かう。
その背筋はどこまでも伸び、歩く姿はまるでファッションショーのランウェイを歩くモデルのようだった。
カツン、カツン、と響くヒールの音。
そして、ドアが閉まる音。
「…………」
「…………」
潮目もナギも、しばらく声も出せず、所長が消えたドアをただ見つめていた。
ラボには、先ほどまで彼女がいた場所にだけ、高級な香水とお米の香りが、ふわりと混じり合って漂っていた。
「……ナギ君」
「はい、潮目さん」
「今の所長……めちゃくちゃカッコよくなかった?」
「……ええ。網膜に焼き付けて、永久保存しました」
静寂が戻ったラボで、二人はしばらくの間、その残り香に心を奪われ続けていた。