人類史を揺るがす5500年前のパンデミック、その起源を追え
闇に潜む古代の影
ラボのメインスクリーンに映し出されるのは、不気味なカラスの仮面をつけた医師の姿だった。
「……中世ヨーロッパを襲った黒死病、ペストか」
ナギは静かに、歴史ドキュメンタリーの映像を見つめている。人口の3分の1以上が失われたという、未曾有のパンデミックの記録だ。
その静寂を、バタバタという慌ただしい足音が破った。
「ナギ君! 見てくれ! 大変なデータを見つけたんだ!」
息を切らした潮目が、山のような資料を抱えてラボに転がり込んでくる。その勢いのまま、見事に電源ケーブルに足を引っかけた。
「うわっ!」
「潮目さん、またケーブル踏んでますよ。それより、その資料はドキュメンタリーの補足ですか? ペストなら今ちょうど」
散らばった資料を拾い集めながら、ナギは冷静に画面を指差す。
「いやいや、違うんだ! もっと、もっと古い話なんだよ! このドキュメンタリーが霞んで見えるくらいにね!」
歴史の教科書を書き換える歯
潮目は興奮冷めやらぬ様子で、一枚のデータシートをナギの目の前に突きつけた。
「定説では、ペストの大流行は農耕が始まって、人が密集して暮らすようになった新石器時代以降だと考えられてきた。でも、これを見てくれ!」
These findings show that plague outbreaks happened earlier than previously thought and were indeed lethal. We contend that the occurrence of outbreaks among mid-Holocene hunter-gatherer communities well outside the sphere of Late Neolithic Europe challenges the notion that higher population densities and lifestyle changes during the Neolithic agricultural transition were prerequisites for plague epidemics.
(これらの発見は、疫病の発生がこれまで考えられていたよりも早く起こり、実際に致命的であったことを示している。我々は、後期新石器時代のヨーロッパの領域をはるかに超えた中期完新世の狩猟採集民コミュニティにおけるアウトブレイクの発生が、新石器時代の農業革命における高い人口密度と生活様式の変化が疫病流行の前提条件であったという考えに異議を唱えるものである。)
出典: Lethal plague outbreaks in Lake Baikal hunter-gatherers 5,500 years ago : Nature
「5500年前! それも農耕社会じゃない、狩猟採集民のコミュニティで、すでに致死性のペストが流行してたっていうんだ! すごい発見だと思わないかい!?」
「なるほど。確かに、歴史の前提が覆りますね」
ナギは潮目の熱量に動じることなく、手元の端末を操作する。
「関連ニュースも捕捉しました。こちらの方が概要は分かりやすいかもしれません」
Scientists have found the oldest known evidence of the plague, which sparked deadly outbreaks dating back about 5,500 years ago—some 200 years earlier than previously thought.
(科学者たちは、これまで考えられていたよりも約200年早い、約5500年前に遡る致命的なアウトブレイクを引き起こした、ペストの最古の既知の証拠を発見した。)
出典: Ancient teeth from Siberia rewrite the plague's timeline, dating back to over 5,500 years ago : The Associated Press
データと風景のあいだで
「シベリアの古代の歯からか……。いやはや、素晴らしいデータです」
潮目は唸りながら、腕を組んだ。
「でも、不思議だと思わないかい? 人口が密集していない狩猟採集の時代に、どうやってパンデミックが起きたんだろう。もしかしたら、ペスト菌は地球外から飛来した隕石に乗ってやってきたとか……」
「潮目さん、SFの読み過ぎです」
ナギはため息まじりに、潮目の突飛な仮説を切り捨てる。
「論文の要点は、これまでパンデミックの前提条件とされてきた『高い人口密度』が、必ずしも必要ではなかった可能性を示唆している点です。宇宙は関係ありません」
「うーん、でもロマンがあるじゃないか!」
「データにロマンを見出すのは結構ですが、足元も見てください。泥臭い現実がそこにあるはずです。この研究によれば、バイカル湖周辺のコミュニティだったそうですよ。おそらく、水辺に集まる動物、特にげっ歯類を介して感染が拡大したと考えるのが妥当でしょう」
潮目はナギの言葉に、はっと目を見開いた。
「そっか、ネズミか! そうだ、その感染経路を特定できれば、古代の疫病の広がりをシミュレーションできるかもしれない! もし、この古代ペスト菌の遺伝子情報から特定のマーカーを検出する超小型バイオセンサーを開発できたらどうだろう? 観測ドローンに搭載して、野生動物の巣に接近し、リアルタイムで病原菌の分布をマッピングするんだ!」
「それはラボトロニカの技術応用として、非常に有効なアプローチですね。古代の謎の解明が、未来の感染症対策に繋がるかもしれません」
珍しくナギも乗り気になったようだ。二人の議論が熱を帯び始めた、その時だった。
現実からの緊急招集
突如、ラボの全モニターがブラックアウトした。
次の瞬間、スクリーンに映し出されたのは、中央アジアの特定の地域を示す衛星マップと、点滅する赤いアラートだった。
凛とした、しかし有無を言わさぬ声がスピーカーから響き渡る。
「あなたたちの遊びは終わりよ。その現実を見なさい」
「ボス!」
「所長!?」
白波所長の声だ。モニターには「Plague Outbreak Alert」の文字が冷たく表示されている。
「5500年前のデータも興味深いけれど、今まさに起きている危機の方が優先よ」
「これって、現代のペスト発生警報……!?」
潮目が息をのむ。
「チケットは手配したわ。現地調査に向かいなさい」
画面に、二人分の航空券情報が映し出される。
「30分後に出発よ」
その一言だけを残し、通信は切れた。
「さ、30分後ーーー!?」
潮目の絶叫が、静まり返ったラボに響き渡った。
「防疫キットと長靴を準備します。潮目さん、パスポートは?」
ナギはすでに冷静に、そして手際よく、過酷なフィールドワークの準備を始めていた。