ウイルス進化論、書き換えか?イソギンチャクが示す「もう一つの免疫システム」
抗生物質は効かないのに
細菌には抗生物質、しかしウイルスには...?
潮目はこの難題について、ここのところずっと頭を悩ませていた。というのも、いまだにウイルス性の風邪に平然と抗生物質を処方する病院があると耳にするからだ。それはどう考えてもおかしいのではないか。そんなモヤモヤを抱え、彼はラボのモニターに映る膨大な論文データを睨みつけていた。
太古の海からのアンサー
「潮目さん、また難しい顔をしてますね。眉間のシワがデータ化できそうですよ」
背後から声がかかる。助手のナギが、湯気の立つマグカップをそっとデスクの隅に置いた。
「ナギ君! いや、考えていたんだ。細菌とウイルスの違い、そして我々の免疫システムについて…何か根本的な見落としがあるんじゃないかって」
潮目は興奮気味に身を乗り出した。
「それで、見つけたんです。これを見てください! イソギンチャクの論文です!」
彼は一つのデータを画面いっぱいに表示させた。
Despite sequence similarity to vertebrate MAVS, CARDIB performs an opposing function: it represses immune genes under basal conditions yet is essential for activation upon viral challenge.
(脊椎動物のMAVSとの配列類似性にもかかわらず、CARDIBは正反対の機能を発揮します。つまり、基礎状態では免疫遺伝子を抑制する一方で、ウイルス感染による活性化には不可欠です。)
出典: An ancient anthozoan protein reveals an alternative evolutionary path of antiviral signalling : Nature Ecology & Evolution
「イソギンチャクですよ! あの海の! 脊椎動物の僕らと似た遺伝子を持ちながら、働きが真逆だなんて! ウイルスに感染した時だけスイッチが入る、省エネな免疫システム…! なんてエレガントなんだ!」
潮目が目を輝かせる横で、ナギは冷静にタブレットを操作する。
「ええ、その論文の解説記事も参照済みです。こちらの情報とクロスさせると、さらに興味深いですよ」
It challenges the long standing idea that animals inherited a single core antiviral system from a common ancestor and instead points to multiple evolutionary solutions for resisting viral infections.
(それは、動物が共通の祖先から単一の核となる抗ウイルスシステムを受け継いだという長年の考えに挑戦し、代わりにウイルス感染に抵抗するための複数の進化的解決策を示唆しています。)
出典: Scientists discover a completely different way to fight viruses : The Hebrew University of Jerusalem
免疫システムの多様な進化地図
「な、なんですって!?」
潮目は椅子から転げ落ちそうになった。
「つまり、僕らが持ってる免疫システムは、進化の過程で生まれた『唯一解』じゃなかったってことですか!?」
「その可能性が高い、ということですね。共通の祖先から受け継いだ『基本OS』は一つでも、それぞれの環境で独自の『アプリ』を開発してきた、と」
「うわああ、燃える! いやはや、素晴らしいデータです! まるで、地球というサーバー上で、生物ごとに全く違うセキュリティソフトが動いているようなものじゃないか!」
潮目は両手を天に突き上げた。
「もしかしたら、このイソギンチャクは…太古の昔に飛来した宇宙船に付着していた生命体の子孫で、地球のウイルスとは全く別のルールで戦う術を…」
「潮目さん、ケーブル踏んでますよ。その仮説はロマンがありますが、DOIから論文の全文を解析した限りでは、あくまで地球の進化の枠内での多様性と結論付けられています」
ナギの冷静なツッコミが、潮目のSF的暴走にブレーキをかける。
「そうか…ですよね。でも、この『CARDIB』というタンパク質のメカニズム、何かに応用できないかな。例えば、うちの観測ドローンに組み込んで、フィールドで未知のウイルスに接触した時だけ防御壁を展開するシステムとか!」
「自己防衛型の観測システムですね。面白い発想です。センサーのデータ汚染リスクを最小限に抑えられるかもしれません」
珍しくナギもそのアイデアに乗ってきた。ラボの片隅で、二人の妄想は静かに熱を帯びていく。
観測、そして海釣りへ
「…決めた」
潮目はやおら立ち上がった。その瞳には、データへの探究心と、もう一つの欲望が宿っていた。
「ナギ君、これはもう、現物を見るしかありません! イソギンチャクが示す、もう一つの可能性をこの目で観測しに行きましょう!」
「フィールドワークですか。了解しました。必要な機材リストをまとめます」
「頼みます! あ、それと…」
潮目は少し照れくさそうに付け加えた。
「…ついでに、僕の釣り竿も準備リストに入れておいてくれませんか?」
ナギは一つ、静かにため息をついた。
「……承知しました。ですが、潮目さん。その泥だらけの長靴はラボに置いていってください。ボスに見つかる前に、私が処分しておきます」
新たな可能性を求めて。そして、多分、夕食のおかずも求めて。ラボトロニカの短い夜は、次の冒険の準備と共に更けていくのだった。