漏電遮断器の誤作動と透過する悪臭!雷サージが招いたバイオハザード【前編】

鳴り響くバイオハザード警報
ウー、ウー、ウー。
ラボのメインコンソールが、これまで聞いたこともない禍々しい警告音を鳴り響かせた。
耳をつんざく警報音とともに、ラボトロニカの天井に据え付けられたパトライトが真紅の光を撒き散らす。
気密シャッターが重々しい音を立ててロックされ、空調システムが完全隔離モードへと強制移行する。
潮目「ナギ君! 微生物検知センサーと線量計の校正は完了したか!? 防護服のエア漏れチェックも頼む! 未知の病原体か、あるいは地球外生命体の有機分解プロセスの可能性すらあるぞ!」
完全密閉型防護服に身を包んだ潮目研究員は、バイザーの向こうで滝のような汗を流しながら、ポータブル環境測定器を構えていた。
その横で、同じく防護フィルターを装着したナギが、冷静にコンソール画面をタップしている。
ナギ「潮目さん、落ち着いてください。線量計はバックグラウンド値。空気中の浮遊細菌数も、バイオハザードレベルには達していません。ですが……」
ナギの音声合成が、わずかに歪んだ。
ナギ「VOC(揮発性有機化合物)センサーの数値が物理的な測定限界値(カンスト)を突破しています。目が刺すように痛むのは、気のせいではありません」
潮目「未同定のガス反応、ガンマ線量計は正常だけど、微生物検出センサーが不穏な数値を示してるぞ」
ナギ「未知の変異体か、あるいは危険な有機毒素の漏出か。発生源の区画を絞り込みます」

何が起きているのか、いまのところわからない。
ナギですら、潮目のSF的発想の、地球外生命体が云々という言葉を、真面目に検証しはじめていた。
そう。
すべては数日前、強烈な線状降水帯が関東に襲いかかったことから始まったのである……
鳴り響く警報と女王の帰還
『緊急事態です! ラボ内部で正体不明の生物学的・化学的有害物質が発生!レベル3バイオハザードです!』
出張先でこの緊急通知を受け取った白波所長は、即座にヘリを手配し、ラボトロニカへと急行していた。
(……潮目の奴、一体なにをやらかしたの!? 試薬の保管手順を間違えた? それとも怪しい深海生物のサンプルでも解凍したのかしら!?)
ラボトロニカに到着しても、そこから先がまた一苦労である。
閉鎖された隔壁内部にはいるための手続きがいる。即ち白波所長も防護服に身を包み、エアロックを通過する。
複数の手続きを経て、ようやくラボ内部に入った頃には、白波所長はそれだけで疲労を覚えていた。
冷酷な怒りを燃やしながら潮目たちのいる区画に近づくと、白波所長の防護服に装着した各種センサーが異常を感知してバイザーに投影する。
白波「放射線レベルは正常値、だけれど……」

何やら有機物系の漏洩らしいが、表示を読み取る前に、潮目とナギが姿を見せたのだった。
潮目「所長! お戻りになられたんですね! 原因不明なんです! 微生物の暴走か、あるいは強力な化学兵器レベルの分解ガスがラボの空気調和系統を占拠していて……!」
白波「潮目、なにかやらかしたの?」
ナギ「ボス、残念ながら今回は潮目さんのミスではなさそうです。汚染物質はラボの最深部、南西のバックヤード付近からじわじわと拡散しています」
潮目「どのへんが残念なんでしょうかナギ君?」
だが、白波の端正な眉が、わずかにピクリと跳ねた。
白波「南西の……バックヤード……?」
南西の角。普段は誰も立ち入らないデッドスペース。
そこには、白波が自腹で購入し、人目を盗んで持ち込んだ私物の小型冷凍ストッカーが置かれている。
その瞬間、白波所長の記憶が一気に蘇った。
消えた緑のランプと絶望の記憶
記憶が急速に巻き戻る。
極秘で取り寄せた沖釣り用のコマセ(オキアミブロック1.5kg×3)を、ロゴスの氷点下保冷剤とともに、その冷凍ストッカーに入れていたこと。
その区画のコンセントには、アース線がなかった。無いよりマシと考え、手元にあったポータブル漏電遮断器――いわゆる『ビリビリガード』を噛ませて設置していた。
そして二週間前。
関東を襲ったのは、猛烈な線状降水帯と雷雨である。
雷鳴と瞬電(瞬間電圧低下)が連発する嵐の中だったが、その記憶は、後の過密なスケジュールの彼方へと完全に消失していた。
◇
白波「あなたたちはこの場に待機。私は南西バックヤードを確認します」
潮目「危険です所長!」
ナギ「そうです、何が待ち受けているか!」
白波は努めて無表情を装いながら、潮目とナギにそっと手を置く。
白波「部下を危険な目にあわせるわけにはいかないわ。私はラボトロニカの責任者よ。ここに私がいる以上、私が先陣を切る必要がある」
言うが早いか、さっそうと身を翻す。
潮目とナギがついてくる素振りを見せたが、
白波「だめよ!来ちゃ駄目!」
アクション映画の女優もかくやという迫真の叫びは、潮目たちを踏みとどまらせることに成功した。

汚染源の正体
南西バックヤード。赤ランプの光に照らされた、白い小型の上開き式の冷凍ストッカー。
その足元。プラグに直結されたビリビリガードのリセットボタンが跳ね上がり、通電を示す緑のランプは完全に消灯していた。
白波「………」
愕然とする白波の防護服のバイザーに、潮目たちのビデオ通話面が投影される。
潮目「所長、どうやら各検出値によると、最も汚染物質の密度が高いのはそこです。って、あれ、そんな冷凍庫あったっけ?」
ナギ「漏電遮断器が、切れてるようですね?」
潮目「冷凍庫が漏電してるの?」
ナギ「いえ、どうやら別の要因もあるみたいです」
However, there are situations where the use of RCCBs presents certain problems. In circuits that feed electronic loads RCCBs often cause nuisance tripping.
(しかしながら、RCCB(漏電遮断器)の使用が特定の問題を引き起こす状況が存在します。電子負荷に給電する回路において、RCCBはしばしば迷惑なトリップ(不要な作動)を引き起こします。)
出典: Study of nuisance tripping of residual current circuit breakers with electronic loads (配信元: academia.edu)
潮目「なるほど! インバーター機器や電子負荷がある回路だと、高周波漏れ電流やサージのせいでRCCBが不要作動(誤トリップ)を起こす現象ですね!」
ナギ「二週間前の激しい雷雨で、サージ電流が一般配線に回り込んだ可能性がありますね。ラボの保護電源系ではなく、壁の一般コンセント直結だった機材が落ちたようです」
白波「…………」
白波の額に、防護マスク越しでも分かる冷たい汗がツーと流れた。
ナギからのワンポイント解説
- 雷サージおよび瞬電による漏電遮断器(RCD)の不要動作(Nuisance Tripping)
漏電遮断器内部の零相変流器(ZCT)は「往き」と「帰りの」電流差を監視するが、落雷時の雷サージや瞬電に伴う過渡的ノイズを漏電電流と誤誤認して回路を遮断することがある。電源監視が不可欠な冷凍保管環境における保護回路設置の運用上の落とし穴を示す。
- オキアミにおける自己消化酵素(Autolysis)と複合悪臭の生成
南極オキアミ等の甲殻類は強力な内因性プロテアーゼを保有しており、死後即座に自己肉質の液状化(自己消化)が進行する。これによりアミノ酸が急速に供給され、腐敗細菌の増殖に伴いトリメチルアミン(TMA)やジメチルスルフィド(DMS)等の強烈な複合悪臭物質が短時間で大量生成される。
- 白波所長における認知行動および保身バイアス(観測メモ)
バイオハザードアラートの渦中において、被験者(白波)の心拍数および発汗量が急上昇。自己の過失(極秘購入したコマセの放置とビリビリガードの誤動作)を認識しつつも、組織内での圧倒的カリスマ性と威厳を優先し、事実の隠蔽を図る心理的葛藤が明瞭に観測された。
ガスクロマトグラフィーが暴く暗黒物質
白波「(……やばい。やばいやばいやばい……!! 電源が落ちてる……!! 二週間前から、ずっと……!!)」
冷酷で孤高、完璧無比を誇る最高責任者・白波所長の背中に、ドッと大量の冷汗が噴き出した。
口が裂けても「私が釣りの餌(オキアミ4.5kg)を隠して忘れ去り、瞬電で保護回路が落ちて熟成発酵させていました」などと言えるはずがない。
白波のプライドと威厳が、音を立てて崩壊の危機に瀕していた。
その白波の耳に、さらなる追撃情報が飛び込んでくる。
ナギ「ポータブルガスクロマトグラフィー質量分析計の初期データが出ました。画面に転送します」
ナギが淡々と端末を操作すると、モニターに鋭いスペクトルピークが次々と立ち上がった。
ナギ「……硫化水素、メチルメルカプタン。それに高濃度の酸化脂質由来の揮発性アルデヒド」
潮目「うわっ、すごい毒性ガスのオンパレードだ! まるで地獄の釜が開いたような成分構成だよ!」
ナギ「さらに顕著なピークがあります。……トリメチルアミン、極めて高濃度」
潮目「トリメチルアミン!? それって、アミン類の……つまり……魚介類が腐敗した時の猛烈なアノ臭いじゃないですか!?」
ナギ「ええ。正確には、甲殻類などのアミノ酸や脂質が腐敗し、自己消化と細菌分解のワルツを踊り狂った結果の成れの果てです」
潮目「えええっ!? なんでそんなものがどうしてここに!?」
ナギの冷徹な分析が、南西の片隅にある純白の冷凍ストッカー――今はただの常温密閉発酵器と化した箱へと向けられる。
白波「(トリメチルアミン……酸化した脂……硫黄化合物……)」
白波の脳裏に、解凍され、自己消化酵素によってドロドロに液状化し、ガスでパンパンに膨張しているであろう最高級生オキアミの姿が鮮明に浮かび上がった。

口が裂けても言えない。
私はラボトロニカの最高責任者。クールビューティーで孤高、常に完全無欠たる白波所長なのだ。
趣味の海釣りのためにオキアミを買い込み、多忙にかまけて放置し、雷サージで落ちた漏電遮断器にも気づかずバイオハザードを引き起こしたなどと――
部下たちの具体的な解説が、白波の精神にグサグサと突き刺さる。正しい情報は刃よりも鋭いものなのである。
潮目「けどあの冷凍ストッカー? みたところ蓋が閉じてるみたいだけど、密閉されてるなら発生源はあそこと違うのでは?」
ナギ「いえ、トリメチルアミンはパッキンやプラスチックの分子構造にも浸透します。超高濃度の汚染源があの内部にあるなら、漏れ出ても不思議ではありません。ただ、それでも、これほどの臭気が漏れるということは尋常でない濃密な……」
白波は、防護服の中でかつてない戦慄を覚えていた。
(後編に続く)
