漏電遮断器の誤作動と透過する悪臭!特級呪物と化した白物家電【後編】

前編のあらすじ
白波は完全密閉型の防護服に身を包み、南西バックヤードの冷え切ったコンクリート床の上で立ち尽くしていた。
目の前にあるのは、彼女が私物として秘密裏に持ち込んでいた小型の冷凍ストッカーである。
アース端子のない旧式コンセントだったため、応急処置としてプラグ形漏電遮断器、いわゆるビリビリガードを噛ませていた。
しかし先週末、局地的な落雷による瞬時電圧低下が連発した際、ビリビリガードが誤作動を起こしてトリップしたのだ。
電源が落ちた庫内には、週末の海釣り用にと買い溜めていた大量のオキアミブロックと、ロゴスの氷点下保冷剤が眠っていた。
密閉された暗黒の中で常温放置された甲殻類は、いまやバイオハザードレベル3相当の異臭をパッキンの隙間から漂わせる、紛れもない特級呪物へと変貌を遂げていた。
すべては自分の不始末である。だが、孤高にして冷徹な所長としてのプライドにかけて、潮目たちにこの間抜けな真実を知られるわけにはいかない。

南西バックヤードに眠る特級呪物
白波「……まずは内部の被害状況を確認しなければ。けどそのまえに」
白波は壁面のコンソールを素早く操作し、監視カメラの映像系統を落とした。
白波「システム定期同期エラー……これでよし。記録は残さないわ」
震える手でストッカーの留め金を外し、天板を数ミリだけ持ち上げた。
その瞬間、目視できたのは赤黒く液化し、どろどろのスープとなったピンク色とも茶色ともつかない無数のオキアミたちの成れの果てだった。
防護服のフィルターすら貫通しかねない濃厚な刺激臭の視覚的暴力に、白波の意識が激しく揺らぐ。
ピピピ、と防護服の生体モニターが狂ったような警告音を鳴らし、心拍数は一気に跳ね上がった。

一方その頃、メインラボのモニタリング室では異変が察知されていた。
潮目「ナギ君、見てください! 所長のバイタルが急激に異常値を示しています!」
ナギ「心拍数百六十オーバー。呼吸数も乱れています。防護服破損による有毒ガス中毒、あるいは未知の生命体による襲撃の可能性があります」
潮目「大変だ、すぐに助けに行かないと! 所長、いま行きます!」
白波「(まずいわ……! 入ってこられたらすべてが露見する……!)」
絶体絶命の窮地に陥った白波は、震える指で端末を叩き、ある人物のホットラインへと通信を繋いだ。
白波「……黒石、私よ」
黒石「あら白波ちゃん!」
白波「あいさつは後!。あなた、今すぐダイ・ハード1のパウエル巡査部長になって!」
黒石「は? 誰よそれ? ってダイ・ハードの、あのナカトミビルの外からブルース・ウィリスを助けるお巡りさん? なんで映画のキャラの物真似?」
白波「いいから! 緊急であなたにラボトロニカのメイン回線を解放するから、そこから潮目たちに連絡して、ラボの部屋に釘付けにしなさい! あなたに指揮官代行を任命するから、とにかく彼らをバックヤードから遠ざけるのよ!」
黒石「あー……」

頭脳的には白波に匹敵する黒石である。詳細はわからないが、やるべきことを瞬時に察した。
黒石「いいわ、乗ってあげる。その代わり……、次の金曜、私と高級バーでデートすること。いいわね?」
白波「……っ、わかったわよ! 約束するから、早く!」
黒石の遠隔介入と、破滅の気体組成
数秒後、潮目の持つ携帯端末が強制的に切り替わった。
画面には、アーバン・インサイトの黒石所長が映し出される。
黒石「そこまでよ、潮目くん、ナギちゃん。足を止めなさい」
潮目「えっ、黒石所長!? なんでうちの回線に……いや、それより所長がピンチなんです!」
黒石「動くんじゃないわ。現在、バックヤードエリアでは極秘の超危険プロトコルが進行中よ。白波ちゃん自らが現場をコントロールしているわ」
ナギ「しかしボスの生体データは明らかにショック状態を示しています」
黒石「いい? これ以上あなたたちが近づけば、白波ちゃんの命が(社会的に)危ないの」

潮目「命が、そ、そんな!?」
黒石「そうよ。彼女に生きてもらいたいなら全員、そこから戻って自席で待機しなさい。これは外部指揮官代行としての絶対命令よ」
黒石が完璧に時間を稼いでいる間、白波はバックヤードの隔離端末で必死にデータベースを検索していた。
この異臭の正体を科学的に特定し、即座に無力化する手段を見つけ出さなければならない。
白波「オキアミの自己消化と嫌気性細菌による揮発性成分……あったわ」
A total of 52 volatile flavor compounds were detected by GC-IMS, of which 38 were identified (including monomers, dimers, and polymers). The identified compounds included 11 aldehydes, 6 ketones, 14 alcohols, 2 esters, 2 acids, 1 pyridine compound, and 2 sulfur compounds.
(GC-IMSによって合計52種類の揮発性香味化合物が検出され、そのうち38種類が同定された(モノマー、ダイマー、ポリマーを含む)。同定された化合物には、アルデヒド11種、ケトン6種、アルコール14種、エステル2種、酸2種、ピリジン化合物1種、硫黄化合物2種が含まれていた。)
出典: Analysis of volatile flavor compounds in Antarctic krill paste with different processing methods based on GC-IMS : Food Science & Nutrition (配信元: Wiley Online Library)
白波「アルデヒドにケトン、そして硫黄化合物……。これらが常温で一気に爆発的増殖を起こしたのね。生臭さの極致であるトリメチルアミンだけじゃない、複雑な低分子揮発化合物の嵐だわ」
画面越しの黒石が、手元のサブモニターでその論文を素早く流し読みしながら冷ややかに告げる。
黒石「なるほどねぇ。人間の嗅覚受容体を極限まで刺激する悪臭のオーケストラじゃない。で、それを収容していた箱の素材は何かしら?」
白波「……断熱材は、一般的なポリウレタンフォームよ」
黒石「ご愁傷さま。なら、この研究データを見なさいな」
Despite strong potential interactions with volatile organic compounds VOCs, the effect of PUF on indoor concentrations of VOCs has not been examined. This study determines the behavior of PUF as a potential sink for or source of VOCs in indoor air.
出典: Characterizing Polyurethane Foam as a Sink for or Source of Volatile Organic Compounds in Indoor Air : Environmental Science & Technology (配信元: ResearchGate)
ナギからのワンポイント解説
- 多孔質断熱材へのVOC不可逆吸着と高分子貫通性
ストッカー内部で発生した高濃度腐敗ガス(TMA/DMS)は、ウレタン断熱材の微細孔へ物理吸着・化学浸透を起こすため機器の蘇生は不可能である。さらに高分子膜の気体透過性により、ハードケース仕様の保冷剤内部へも悪臭分子が浸透・汚染するため、一括廃棄が必要となる。
- 高機能防臭素材(BOS等)のガスバリア性能
特殊多層フィルム構造を持つ防臭袋は、一般のポリエチレン袋と比較して極めて高い分子遮断性(ガスバリア性)を発揮し、初期段階における急速な悪臭拡散の封止に極めて有効である。
- ダイ・ハード1のパウエル巡査部長
劇中では、孤軍奮闘する主人公のマクレーンに、ビルの外から状況を無線機で交信して支援する。劇中ではマクレーンの良き理解者になった。黒石も白波をよく理解しているが、良き理解者とはそういう意味ではないかもしれない。
染み渡る絶望と、特級防臭ポリマーの防壁
白波「ポリウレタンフォームが、VOCの強力な吸着源であり、同時に継続的な放散源になる……」
黒石「そう。断熱材の内部深くまで微小な揮発性分子がトラップされたら、表面をいくら拭こうが二度と抜けないわ。そのストッカーはもう破棄確定ね」
白波「それだけじゃないわ……。一緒に入れていたロゴスの氷点下保冷剤、外装のポリエチレン容器をガスが透過して、内部の蓄冷ゲルまで腐敗臭で変質している可能性があるわ。あれも全滅よ……」
もはやアルカリ、酸などを用いた清掃や、ましてや脱臭剤でどうにかなる次元を遥かに超えていた。
ともかく汚染源をこの場から除かねばならない。
だがしかし、一般的なポリエチレンのゴミ袋では、悪臭分子の浸透を防ぐことができず、数分で臭気が外へ透過してしまう。それでも白波には対抗策がある。
白波「……あの袋しかないわ。潮目、ナギ、聞こえる!?」
白波はインカムのマイクをONにする。
潮目「所長! ご無事ですか!?」
白波「ええ。潮目、今すぐ備品倉庫のラックC-4にある、医療用BOS防臭袋の超大型ロールを持ってきなさい。バックヤードのドアの前に置いたら、一歩も中に入らず直ちに退避するのよ!」
潮目「えっ、防臭袋ですか? 了解しました!」
数分後、重厚な扉がわずかにノックされ、隙間からロールが差し入れられた。
好奇心を抑えきれない潮目が、首を伸ばして扉の隙間から中を覗き込もうとする。
潮目「所長、一体何が起きて――」
白波「見るな!!」

防護マスク越しとは思えない白波の凄まじい眼光と形相に、潮目は悲鳴をあげて飛び退いた。
白波「早くラボに戻りなさい! 命令よ!」
潮目「は、はいぃぃっ!」
足音が遠ざかるのを確認した白波は、防臭袋を素早く引き入れた。
BOS防臭袋とは、特殊な多層構造フィルムで作られた驚異の防臭素材である。
白波は液化したオキアミの残骸を幾重にも包み込み、さらに悪臭が染み付いた冷凍ストッカー本体ごと袋で完全にラッピングした。
いまや高機能多層フィルムのミイラと化した冷凍ストッカー。
密閉を完了した瞬間、バックヤードを満たしていた甘ったるい刺激臭が急速に減衰していく。
同時に、ラボトロニカの環境監視AIが空気中の異常成分濃度の低下を感知した。
『室内揮発性化合物のクラスタ解析完了。局所陰圧換気および活性炭・オゾン分解フィルターユニット、最大出力で起動します』
機械的なアナウンスとともに天井の排気ダクトが重低音を響かせ、滞留していた気体がクリーンエアへと置換されていった。
白波「これでも、おそらく1週間もすれば、ニオイが貫通してくるでしょうけど、廃棄までの時間は稼げたわ」
黒石「お疲れさん。それじゃついでに産廃業者も手配しておくわね♪」
最終的に、冷凍ストッカーには『さわるな危険』の赤文字のでっかいステッカーが貼られ、化学物質専門の処理業者の待つこととなった。
実証実験という名の隠蔽工作
バックヤードの気圧が正常値に戻り、白波はよろよろと防護服を脱ぎ捨てた。
メインラボへ戻ると、そこにはモニター越しに勝ち誇った笑みを浮かべる黒石と、心配そうに駆け寄ってくる潮目とナギの姿があった。
潮目「所長! ご無事だったんですね! 一体あのバックヤードで何の研究を……?」
白波が答えに窮したその瞬間、画面の黒石が滑らかに口を挟んだ。
黒石「ふふ、潮目くん。白波ちゃんを責めちゃダメよ。彼女はね、都市部における閉鎖環境下でのバイオハザードを想定した、『不慮の緊急事態への対応訓練および環境気体透過実証実験』を一人で極秘遂行していたのよ」
潮目「な、なるほど! 突発的な電源喪失による生体サンプルの自己消化プロセスと、高分子断熱材へのVOC収着挙動、そして多層防臭フィルムの遮断性能を同時にテストしていたんですね! さすが所長、身体を張った素晴らしい実証実験です!」
ナギ「なるほど。所長の心拍数上昇は、極限状態における生理反応データの自己採取だったわけですね。見事なプロ根性です」
汗で濡れた白波が、妙に美しく見える。

白波「……え、ええ。まあ、そういうことにしておくわ」
白波は引きつった笑みを浮かべ、冷や汗を拭った。
真実は完全に闇の中へと葬られ、美しき所長の威厳は保たれたのである。
ただし、その代償は決して小さくはなかった。
こんどは白波の携帯端末に、黒石の顔が映る。
黒石「さてと。白波ちゃん、約束は忘れてないでしょうね? 来週の金曜夜、高級バーでデートよ」
白波「……うっ」
黒石「断ったら、さっきの防護服姿で『見るな!』って絶叫した動画、学会の重鎮たちに一斉送信しちゃうから」
画面の向こうで、黒石は楽しそうにウインクを飛ばした。
金曜の夜
後日、高級バーでウキウキでワインを傾ける黒石と、魂が抜けた顔でグラスを見つめる白波の(黒石だけが楽しい)デート風景が、都内の一角で観測されたのだった。
その後、二人は互いの腕を組んで自撮り写真を撮っていたようだが、爛漫な笑顔と、焦点の定まらない引きつった笑みの女性の姿は、見る者に奇妙な印象を抱かせていたという。
めでたしめでたし。

