【頭から離れない曲を消す方法と原因】|イヤーワームの亡霊と、切ない旋律

モニターの光と、止まらないリフレイン
ラボの蛍光灯の下、潮目研究員はキーボードに指を置いたまま、深いため息を落としていた。
画面に表示された環境波形データはまったく頭に入ってこない。
潮目「……はぁ」
ナギ「朝からため息の周波数が高いですね。何かあったんですか」
潮目「元カノから連絡があったんだよ」
ナギ「ほう、よりを戻すおつもりで?」
潮目「全然違うよ。なんか元カノがさ、僕の部屋にCDを忘れて置きっぱなしにしてたんだよね。いまさらだけれど、プレミアついて高く売れるから送り返せってさ」
そう、彼を支配していたのは、昨晩届いた元カノからの無機質なメールだったのである。

ナギ「あー……」
潮目「出勤前にコンビニから宅急便で送ったんだけどね。送る前に、ついCDを再生しちゃったんだよ。そうしたら、昔の楽しかったドライブの記憶と、最後の『泥臭い観測と私とどっちが大事なの!?』っていう修羅場が、あのサビメロと一緒に脳内で無限ループしてて……」
ナギ「典型的なイヤーワーム、いわゆる『頭内挿入歌現象』ですね。過去の未練と結びついた最悪のコンボです」
コツ、コツ、と硬質なヒールの音が背後に響いた。
白波「進捗報告を聞きにきたけれど……何かしら、このお通夜のような空気は」
潮目「あ、所長。お疲れ様です」
入ってきた白波所長は、いつも通りの涼やかな美貌でモニターを見下ろした。しかし、目の下に隈を作り、魂の抜けたような潮目の顔を見て、わずかに眉をひそめる。
白波「……いつにも増して冴えない顔ね。フラれた当時の亡霊にでも取り憑かれたかしら」
ナギ「あながち間違いではありません。元カノのCDの楽曲が、潮目さんの脆弱なワーキングメモリを占領しています」
白波「くだらないわね。でも、観測の効率が落ちるのは見過ごせないわ。——ナギ、例の論文を潮目の目の前に叩きつけなさい」
ナギ「了解です。ちょうど潮目さんの脳内バグを修正するデータがありました」
脳内の亡霊を撃ち落とす「咀嚼」の力学
ナギが指先で操作すると、潮目のメインモニターにひとつの論文データが大きく投影された。
潮目「な、なんですかこれ……?」
ナギ「あなたの脳内で暴れるその切ないメロディを、物理的に強制終了させるための観測データです」
Experiment 1 shows that interfering with articulatory motor programming by chewing gum reduces both the number of voluntary and the number of involuntary—unwanted—musical thoughts.
(実験1は、ガムを噛むことによって調音運動プログラミングを妨害することが、意図的な音楽的思考と、非意図的で望まない音楽的思考の両方の数を減少させることを示している。)
出典: Want to block earworms from conscious awareness? B(u)y gum!. : The Quarterly Journal of Experimental Psychology (配信元: Sage Journals)
潮目「えっ……ガムを噛むだけで、音楽的思考が減る……!?」
白波「人間が頭の中で音を再生するとき、脳は無意識に喉や口の筋肉を動かす準備——『調音運動プログラミング』を行っているのよ」
ナギ「つまり、脳内で歌っているとき、私たちは微弱に口の中で歌真似をしているわけです。ガムを噛むという別の顎の運動を差し込むことで、その回線を物理的に妨害できるんですよ」
潮目「じゃあ、本を読んだり、難しいパズルを解いて気を紛らわせたりするよりも効果的なんですか!?」
ナギ「その疑問に対する答えも、こちらの二次ソースに記載されています」
Published in the Quarterly Journal of Experimental Psychology (Taylor & Francis) the results of the research show the best way to block obsessive melodies is neither to read a good novel nor solve complex anagrams but, simply, to chew gum.
出典: How to stop songs from getting stuck in our heads? Chew some gum! : University of Reading (配信元: ScienceDaily)
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失恋のメロディと、フィールドガジェットの妄想
潮目「素晴らしい小説を読むことでも、アナグラムを解くことでもなく、ただガムを噛むこと……! なんて泥臭くて美しい対抗策なんだ!」
白波「感心している暇があったら、自分の口を動かしなさい」
潮目「でもナギ君! これって拡大解釈すると、僕たちが自然界の音波兵器や超音波テレパシーを受けたときでも、顎を動かし続ければ精神汚染を防げるってことじゃないかな!?」
ナギ「急にSFへ飛躍しないでください。まあ元気が出るのは良いことですけど。とにかく、ただの聴覚イメージの運動抑制機能です」
潮目「いやいや! たとえば過酷な湿地帯のフィールドワークで、虫の羽音や泥の不快な擦過音がトラウマとしてリフレインするのを防ぐ『アクティブ・チューインガム型ノイズキャンセラー』とか作れませんかね!?」
ナギ「長靴の泥を落とすことすら忘れる人が、フィールドで延々とガムを噛み分けられるとは思えませんが」
白波「……まあ、着眼点としてはラボトロニカらしい泥臭さね」
白波所長は小さく息をつき、いつになく柔らかい手つきで、自身の白衣のポケットから銀色の包みを取り出した。
潮目「あ、それって……」
白波「ミントガムよ。仕事に集中力を保つために持っていたものだけど……今のあなたには、どんな高級機材よりこれが必要でしょう」

噛み締めたミントと、過去の昇華
白波所長から手渡された一粒のガムを、潮目は恐る恐る口に放り込み、ゆっくりと噛み締めた。
ツンとした清涼感が鼻腔を抜け、激しく上下する顎の動きとともに、頭の中で鳴り響いていた失恋ソングの輪郭が、潮が引くようにぼやけていく。
潮目「……あ。本当に、サビのところで歌えなくなってきた」
ナギ「調音器官のハイジャックに成功しましたね。これでモニターの波形が見えるようになりましたか」
潮目「うん。……なんだか、冷静になったらさ。あのとき『泥と私とどっちが大事なの』って聞かれて『どっちも大事』って答えた僕も、大概ひどかったよなぁって……」
白波「仕事と自分を比較させる女も大概だと思うけどね」
ぽつりぽつりと、潮目は胸の奥に澱んでいた当時の後悔を吐き出し始めた。
彼女と見た夕暮れの河川敷のこと。観測機材のローンを組んで怒られたこと。そして、今日、返送したCDを二人で何度もドライブ中に聴いたこと。
白波は腕を組み、静かに潮目の情けない昔話に耳を傾けていた。その冷徹な瞳の奥に、ほんの少しだけ、部下を労るような微かな光が宿る。
白波「……どっちも大事、ね。研究者としては満点の誠実さだけれど、女心としては零点ね」
潮目「うっ……面目ないです……」
白波「でも、その不器用さがあるからこそ、今のあなたの観測データには嘘がないのよ。よく今まで、一人で抱えて頑張ってきたじゃない」
潮目「所長……っ!」
白波所長の思いがけない優しい言葉に、潮目の目頭が熱くなる。
白波「潮目、胸でも貸そうかしら」
潮目「あ、え、ええと、さすがに涙で濡らしたら失礼な感じがするので、もったいないけど遠慮します」
白波「即答とは、つまんないわね」
ナギ「潮目さんの生体データ、涙腺崩壊の兆候を検知。よしよし、よく頑張りましたね潮目さん。今日の泥臭い懺悔はログとして永久保存しておきます」
潮目「ナギ君は余計なログを取らないで! ……でも、うん。胸のつかえが取れました。僕、もう前を向けます!」
白波「なら、すぐに溜まったレポートを片付けなさい。ガムを噛み終わるまでに終わらなかったら……」
ピコン!
ラボ内に、無機質なメッセージ受信音が鳴り響いた。潮目のポケットの中でスマホの画面が光る。
スマホを取り出す潮目の表情が固まる。
潮目「……元カノだ」
白波所長とナギも、一瞬、固まってしまった。
潮目「ええと……。『CD送ってくれた? あと言い忘れてたけど、私、今度商社の彼と結婚することになったんだ〜。潮目くんも研究ばかりで生涯独身にならないように気をつけてね(笑)』 だそうです」
音読しながら、最後はトーンもテンションもだだ下がりになる潮目である。
白波「……潮目。分かれて正解よ。その女とゴールしたって良いこと何にもなかったわ。ったく黒石とは違うベクトルで厄介な元カノね」
そう言っても潮目の耳にはまったく言葉が届いていないようだった。
さすがの白波所長も、潮目が不憫でならなく思えてしまった。
白波「潮目! 来なさい、胸でも肩でも好きなだけ貸してあげるわ! 泣きなさい! そしてその商社マンとやらがひれ伏すような世紀の論文を書いて見返してやりなさい! 私が全面バックアップしてあげるから!!」
白波所長は崩れ落ちた潮目を引き寄せ、背中をバシバシと激しく叩いて鼓舞する。

ナギ「潮目さんの心拍数190を計測。涙腺決壊度100%。ショックによる一時的な言語障害が発生中……。よし、絶望と覚醒が交差する極めて貴重な生体データ、バッチリ観測完了しました(淡々とカメラとセンサーを潮目に向けながら)」
潮目「しょ、所長ぉぉぉぉぉん!! 見返すから僕に予算の確保をお願いしますうぅぅぅ!!」
さすがにこの状況、ガムでは対抗できなかったようであるが、予算は得られそうであった。
