【昆虫食が流行らない本当の理由?古代DNAが示す答え】|9000年前から続く、食わず嫌いの系譜

黒い影と、過ぎ去りしブームの記憶
ガタガタッ、とラボのロビーで物音が響く。何かが高速で移動する気配。
潮目「そこかっ!いや、こっちか!」
スリッパをを片手に、素早く動く黒い影を追いかける潮目の姿があった。その動きは機敏だが、どこか空回りしている。
ナギ「潮目さん、落ち着いてください。ただの一匹のGです」
壁際で冷静に見守るナギの声も、今の潮目には届いていない。
潮目「逃すものか!ラボトロニカの平和は僕が守る!」
バシッ!という小気味よい音と共に、ついに黒い影の動きが止まった。同時にスリッパも縫い目が裂けてしまった。
潮目「ふぅ……。仕留めたり。犠牲はスリッパ片足か。なかなかの強敵(とも)だった……」
満足げに手を洗いながらラボに戻ってきた潮目は、ふと何かを思い出したように天井を仰いだ。
潮目「いやはや、ナギ君。このGを見ていたら、数年前の一大ブームを思い出しましたよ」
ナギ「ブーム、ですか?」
潮目「昆虫食ですよ! 政府が旗を振って、コオロギパウダーだの、なんだのって。でも、ものの見事に大バッシングされて、担当大臣は『コオロギ大臣』なんて不名誉な渾名を付けられて。挙げ句の果てには、鳴り物入りで参入した養殖会社まで倒産しちゃった」
ナギ「ありましたね。記憶に新しいです」
潮目「なんで、あんなに失敗しちゃったんでしょうね? 人類は古来から昆虫を食べてきた、栄養価も高いスーパーフードのはずなのに!」
ナギ「そこのGを食べたいと思うかどうか、というところに答えがあるのでは?」
潮目「それを言ったら元も子もないですよ。でもイナゴとか食べられてたわけですし……」
ゲノムに刻まれた、9000年分の「ノーサンキュー」
ナギ「潮目さん。その『人類は古来から昆虫を食べてきた』という常識、少し見直す必要があるかもしれません」
潮目はナギの言葉に、きょとんとした顔を向けた。
ナギ「ちょうど、関連する興味深いデータがあります。古代ヨーロッパ人の歯石に残されたDNAを解析した研究です」
Together, our findings support occasional and possibly incidental insect consumption in Europe over the past ~9000 years.
(総合すると、我々の発見は、過去約9000年間のヨーロッパにおける昆虫食が時折、そしておそらく偶発的なものであったことを支持する。)
出典: Genomic evidence for limited entomophagy in ancient Europeans : Science Advances (配信元: Science.org)
潮目「ええっ!? 偶発的!? つまり、積極的に食べていたわけじゃないってことですか?」
ナギ「はい。穀物か何かに紛れ込んでいたのを、間違って口にしてしまった程度、という可能性を示唆しています。さらに、この研究を主導した研究者はこうも述べています」
"The scarce presence of insects in the diet of northern Eurasians suggests that the absence of entomophagy is not solely due to recent cultural factors, but also to a long ecological and evolutionary history," says Pablo Librado, principal investigator at the IBE who led the study.
(「北方ユーラシア人の食事における昆虫の存在が乏しいことは、昆虫食の欠如が最近の文化的要因だけでなく、長い生態学的・進化的歴史にも起因することを示唆している」と、この研究を主導したIBEの主任研究員パブロ・リブラードは言う。)
出典: Your dislike of eating bugs may be 9,000 years old : Spanish National Research Council (CSIC) (配信元: ScienceDaily)
潮目「うわ、マジか……。最近の文化的なものじゃなくて、9000年も前から続く根深い『食わず嫌い』だったってこと……?」
ナギからのワンポイント解説
- 西洋人の「虫嫌い」は9,000年続く遺伝と進化の歴史
北ユーラシアの人々は農耕開始(約9,000年前)以降、昆虫の外骨格(キチン質)を分解する酵素遺伝子の機能を低下させてきたため、昆虫食への心理的・生理的拒否感には明確な進化的背景がある。
- ネアンデルタール人はハエや蚊の幼虫を日常的に摂取
古代の歯石DNA解析によると、ネアンデルタール人は湿地に貯蔵した肉に湧いたハエの幼虫などを貴重な栄養源として日常的に食べており、高いキチン質分解能力を保っていた。
- 熱帯地域では現在も高い消化能力が継続
シロアリやバッタが年間を通じて豊富に手に入る熱帯地域の人々は、現在でもキチン質を効率よく消化する酵素遺伝子を強く保持している。
- 現代の食品技術で「進化的ハンデ」を克服
現代の工業加工技術でキチン質を除去・パウダー化すれば、人類が進化の過程で弱めた消化能力の壁を越え、環境負荷の低い次世代タンパク質として大規模活用できる?
ナギ「その可能性が高い、とデータは示していますね」
食文化の深淵、あるいはDNAの囁き
潮目は頭を抱えて唸り始めた。
潮目「うーん、でも納得いかない!何か、何か理由があるはずだ!……わかった!」
ナギ「何がです?」
潮目「これは、古代人が昆虫とテレパシーで交信していたんですよ!彼らは友人だった!だから食べるなんてとんでもない、という暗黙のルールがあったんです!」
ナギ「歯石からは偶発的な摂取の痕跡が見つかっています。友人を誤って食べてしまっていますね」
潮目「ぐっ……!確かに……」
ナギ「単純に、北方のような寒冷な地域では、食料として価値のある大型の昆虫が一年を通して安定的に確保できなかった、という生態学的な要因の方が説得力があります」
潮目「そ、そっちの方が現実的かぁ……」
しょんぼりする潮目だったが、すぐに目を輝かせた。
潮目「でも、この歯石のDNAから食生活を割り出す技術って、とんでもなくないですか!? もう試されてるかもですが、現代病のルーツを探ることもできるんじゃないでしょうか? 古代人と現代人の食生活の差分からアレルギーとか炎症とかの原因を探って、そこから予防法とか治療薬とか作るんです」
ナギ「興奮しているのに、珍しく良いアイデア出しましたね」
潮目「うまくいけばヘルスケア・センサー作れるよね。超精密なやつ。できればすごいぞ!」
ナギ「その先進的発想は素敵です。ですがまず理想より現実から認識しましょうか。壊したスリッパの備品申請書を提出してください」
潮目「あ……はい」
その時だった。二人の背後から、ふわりと高級な香水の匂いが漂い、冷たくも美しい声が響いた。
白波「……あなたたち、まだそんな次元の話をしているの?」
水平線の彼方に見る、新たな生態系
潮目「しょ、所長!?」
ナギ「ボス……。いつからそこに?」
いつの間にか、白波所長が二人の背後に佇んでいた。その美しい瞳は、モニターに映し出されたデータを冷徹に見据えている。
白波「人間が食べるか、食べないか。そんな気まぐれで小さな市場を相手にするから、ブームはすぐに廃れるのよ」
潮目「と、言いますと……?」
白波「視点を変えなさい、潮目。本当に昆虫というタンパク源を必要としているのは、飽食の人間ではないわ」
白波は端末を操作し、モニターに世界中の養殖漁業のグラフを映し出す。
白波「今の養殖魚の飼料が何でできているか知ってる? 海で獲れたイワシやサバといった小魚をすり潰した、魚粉よ。でも、その小魚がもう獲れなくなりつつある。価格は高騰し、海の生態系は限界に達しているわ」
潮目「まさか……」
白波「海のタンパク質が枯渇に向かう今、陸上で、しかも省スペース・短期間で生産できる昆虫というタンパク源が、どれほどの戦略的価値を持つか。そのポテンシャルに、なぜ気づかないの?」
潮目の脳裏に、電撃のような閃きが走った。
潮目「そ、そうか……! 人間用のおやつなんかじゃない! 養殖魚たちの、未来のゴハンとして……!」
ナギ「……確かに。それならば市場規模も安定性も比較になりません。持続可能な食料生産システムの一翼を担う、巨大な産業になり得ますね」
白波は静かに微笑むと、潮目に向き直った。
白波「次のレポートテーマは決まったわね。コマセ、じゃなくて、養殖漁業における昆虫由来飼料の市場性と、持続可能な生産モデルについて。……期待しているわよ」
潮目「は、はい!やります!やらせてください!」
ヒールの音を響かせ、白波所長は嵐のように去っていく。
残されたラボで、潮目は興奮冷めやらぬ様子で拳を握りしめていた。
ナギ「……結局、ロビーのG退治から、世界の食糧安全保障の話にまで発展しましたね」
潮目「ですね!いやはや、ナギ君!日常にこそ、世界を変えるデータの欠片は隠されているんですよ!」
