【ヒトフェロモンは存在しない?体臭と魅力の真実】|漂う疑惑のスメル、あるいは香らぬ愛のワルツ

漂うラボの異変と、落ちた端末
電子機器のファンが静かに回るラボに、かすかな異変が漂っていた。
ツンとした、どこか酸味を帯びた饐(す)えた匂いである。
白波「……潮目。そこに直りなさい」
ラボの自動ドアが開き、白波所長が冷ややかな視線を向けながら足を踏み入れた。
潮目とナギの背筋が、同時に凍りつく。
潮目「し、所長! お疲れ様です! どうされましたか?」
白波「どうされたかも何もないわ。この悪臭は何? ラボの空調が死んだのかしら」
ナギ「空調フィルターは正常に稼働しています。熱交換器にも異常はありません」
白波「なら原因は一つね。潮目、あなたね。言い訳は聞かないわよ」
潮目「えっ、ぼ、僕ですか!? そんなはずは……」
白波「私は磯の香りは愛しているけれど、ズボラな人間が放つ不潔な悪臭は一秒たりとも許容しない主義なの」
潮目「ひ、酷い言いがかりです! 僕はただ、崇高な科学の発展のためにですね……!」
激しく身振り手振りを交えて後ずさりした潮目のポケットから、スマートフォンが滑り落ちた。
乾いた音を立てて床を滑った端末を、ナギが無表情のまま拾い上げる。
ナギ「画面が点灯しています。通知元は……アーバン・インサイトの黒石所長ですね」
白波「黒石? あの女が潮目に何の用よ。ナギ、読み上げなさい」
潮目「ああっ! ダメですナギ君! それは機密事項というか男のプライバシーが!」
ナギ「『潮目くん、フェロモンが異性を引きつけるかどうかの実験に付き合って? 2、3日はお風呂に入らないでラボにいてね。期待してるわ♡』……以上です」
白波「……は?」

ナギ「なるほど。潮目さんは黒石所長の甘言に乗せられ、無謀なバイオテロを敢行していたわけですね」
潮目「ち、違うんです! 人類の未知なるフェロモンの力を解明しようという、純粋な探求心でして!」
フェロモンの幻想と、突きつけられた科学
白波「純粋な探求心? 単に黒石に鼻の下を伸ばしただけでしょ。それに、根本的な知識が致命的に足りていないわ」
白波所長は冷徹な手つきで自らの端末を操作し、ラボのメインスクリーンにデータを投影した。
白波「ナギ、この哀れな生ゴミに現実を教えてあげなさい」
ナギ「了解しました。潮目さんが信じ込んでいる『フェロモン神話』を打ち砕く一次データです」
If human sex pheromones affect our judgements of gender, attractiveness or unfaithfulness from faces, they are unlikely to be AND or EST.
(もしヒトの性フェロモンが顔から判断される性別、魅力、あるいは不誠実さの判断に影響を与えるとしても、それらがAND(アンドロスタジエノン)やEST(エストラテトラエノール)である可能性は低い。)
出典: Putative human sex pheromones do not affect gender perception, attractiveness ratings or unfaithfulness judgements of faces : Royal Society Open Science (配信元: PMC)
潮目「そ、そんな馬鹿な! ANDやESTといえば、モテ香水とかに必ず入っている伝説のフェロモン成分じゃないですか!」
ナギ「厳密な二重盲検法による実験の結果、顔の魅力や性別の判断には何の影響も与えないことが証明されています」
白波「夢を見るのは勝手だけど、科学者を名乗るなら追試くらい調べなさい。さらに決定的なデータを見せてあげるわ」
What's more, no chemical has ever been found in humans that meets the criteria to be labeled a pheromone.
(さらに、ヒトにおいてフェロモンと分類される基準を満たす化学物質はこれまで一つも見つかっていない。)
出典: Why not showering is the latest self-improvement trend – and why the science of 'pheromone-maxxing' just stinks : The Conversation (配信元: Phys.org)
潮目「一つも見つかっていない……!? ゼロなんですか!?」
白波「そうよ。現時点で、科学的にヒトフェロモンと定義できる物質はただの一つも存在しない。あなたの体から出ているのは、ただの雑菌が皮脂を分解した悪臭よ」
泥臭い皮膚常在菌と、実用化の妄想
潮目「し、しかし所長! もしかしたら未発見の未知なるフェロモンが、僕の毛穴から大気中へ放出されている可能性も!」
白波「往生際が悪いわね」
潮目「たとえば古代の狩猟採集民が使っていた、言葉を超えたテレパシーのような原始の誘引フェロモンですよ! 現代科学のセンサーが追いついていないだけかもしれません!」
ナギ「潮目さん、それはオカルトです。現実はもっと泥臭い生化学の現象ですよ」
ナギは冷静に空調の換気ファンを強に切り替えながら続けた。
ナギ「皮膚の常在菌であるコリネバクテリウム属などが、アポクリン汗腺から出た分泌物を分解して低級脂肪酸を生成しているだけです。放置すれば雑菌が繁殖し、毛嚢炎などの皮膚疾患を引き起こすリスクが高まるだけですね」
潮目「うっ……浪漫のかけらもない……。でも、もしですよ?」
潮目は鼻をひくつかせながら、懲りずに目を輝かせた。
潮目「もし皮膚常在菌の代謝物パターンをリアルタイムで網羅的にスキャンできる超高感度ガジェットを作れたらどうでしょう!?」
ナギ「ガジェット、ですか?」
潮目「そうです! 『におい可視化ウェアラブルデバイス』です! 相手の体臭から好意のバロメーターを瞬時にグラフ化してディスプレイに表示するんです!」
白波「……ふうん。続けなさい」
ナギ「確かに、呼気や皮膚ガスから疾患の兆候を検知するバイオマーカー観測技術は現場でも応用可能です。というよりすでにいくつか実用化されてましたね」
潮目「うっ、世の中進歩が早いな...。けど、これを『フェロモン・アナライザー』としてフェロモン特化の製品化すれば、恋愛モニタリング市場?に革命が起きますよ!」
白波「言ってる通りに作ったとして、遠隔で他人のワキガを検出するセンサー以外の何者でもないと思うけど。そもそも臭けりゃモテるモテない以前の問題よ。グラフ化してまでダメージ負いたい?」
潮目「うぐっ……」
白波「知ってるかしら? 夜間の飲酒検問。テレビだとアルコールセンサーで調べてる様子が流されるけど、実際の現場だと、お巡りさんが、運転手の吐息に鼻を近づけてニオイをかいでるのよ。センサーよりも正確なのは人間の鼻ってことなのかしらね。あらゆる意味で大変よねお巡りさん。不特定多数の他人の吐息のニオイを、感染症上等で嗅がないといけないなんて」
清潔の鉄槌と、ライバルからの無慈悲な返信
白波「ま、夢を語る前に、現実を片付けなさいということよ」
白波所長の声の温度が、すっと氷点下に落ちた。
白波「風呂に入らないことで皮膚バリア機能は低下し、角質が溜まって感染症リスクは跳ね上がる。何より、同じ空間で働く人間の知的生産性を著しく破壊しているわ」
ナギ「激しく同意します。現在のラボ内の空気質指数は、観測史上最悪を記録しています」
白波「潮目。今すぐラボのシャワー室へ行き、頭のてっぺんから爪先まで薬用ソープで三回洗い流してきなさい。五分以内に出てこなければ、来月の観測機材予算は全額凍結よ」
潮目「ひいっ! す、すぐ行きます! 申し訳ありませんでしたー!」
脱兎のごとくシャワー室へ駆け出そうとした潮目の足元で、置き去りにされていたスマートフォンが再び震えた。
潮目「あ、ちょっと待ってください! 黒石所長に『白波所長に全部バレて怒られました』って報告のメッセージだけ送らせてください!」
ナギ「どうぞ。逃亡防止のため私が代筆して送信します。……送信完了しました」
ピコン、と即座に返信のアラートが鳴り響いた。
白波「……何て返ってきたの?」
ナギは画面をスクロールし、眉をわずかにひそめて読み上げた。
ナギ「『え? 潮目くん、湯船のお風呂(バスタブ)は皮脂が落ちすぎるからダメって意味で、シャワーは浴びて良いって言ったじゃん(笑)。まさか丸三日も体洗ってなかったの? うわぁ……』とのことです」
潮目「…………えっ?」

ラボ内に、完全なる静寂が訪れた。
白波「…………行きなさい、潮目」
潮目「し、シャワー行ってきますうううぅぅぅ!!」
絶叫と共にシャワー室のドアが閉まり、ナギは深いため息をつきながら強力消臭スプレーをラボ全体に噴射した。
