【空中姿勢制御と角運動量保存の法則】|生体AMBACの謎と、猫になれない研究員

猫と僕らの共通点
ラボトロニカの研究室は、静かだった。聞こえるのはサーバーの低い唸りと、時折キーボードを叩く音だけ。その静寂を破ったのは、研究員の潮目だった。
潮目「猫って、すごいですよね」
唐突なつぶやきに、助手のナギはディスプレイから目を離さずに応じる。
ナギ「唐突ですね、潮目さん。どのあたりがです?」
潮目「いや、あの身体能力ですよ!あんなに高いところから落ちても、くるって体を捻ってピタッと着地するじゃないですか。あれはもう芸術の域ですよね」
潮目とナギは、数少ない共通点として「猫派」という属性を持っていた。だからこそ、その話題には互いに一家言ある。
ナギ「確かに。空中での姿勢制御能力は驚異的です」
潮目「でも、たまにいるじゃないですか。木の上に登ったはいいけど、怖くて降りられなくなっちゃう子。やればできるのにって、もどかしくなるんですよね」
ナギ「……潮目さんが実験機材をハイスペックにしたはいいものの、複雑すぎて使いこなせず途方に暮れている時と少し似ていますね」
ナギの辛辣なツッコミに、潮目は「うっ」と呻いた。彼の脳裏には、先週ショートさせた自作センサーの姿が浮かんでいた。
落ちる猫問題(Falling Cat Problem)
潮目「いや、でも!その『やればできる』ポテンシャルの根源が、ついに科学的に解明されつつあるんですよ、ナギ君!」
潮目はそう言うと、興奮した様子で自分の端末をナギに向けた。画面には、一本の論文情報が映し出されている。
ナギ「このタイトルを見てください!『The falling cat problem』、つまり『落ちる猫問題』!いやはや、研究者も同じことを考えていたんですね!」
Title: Torsional flexibility of the thoracic spine is superior to that of the lumbar spine in cats: Implications for the falling cat problem
出典: Torsional flexibility of the thoracic spine is superior to that of the lumbar spine in cats: Implications for the falling cat problem : The Anatomical Record (配信元: Wiley Online Library) (DOI: 10.1002/ar.70165)
潮目「胸椎のねじりの柔軟性は腰椎より優れている…?ふむ。つまり、猫の背骨には反重力発生装置が組み込まれていて、特に胸のあたりにそのコアユニットが……?」
ナギ「そのDOI、とっくにフルテキストを解析済みです」
ナギは潮目のSF的な妄想を冷たく遮ると、自分のタブレットに別の資料を表示した。
ナギ「山口大学が、より分かりやすい研究成果を発表していますよ」
本研究は、ニュートラルゾーンなどの力学的手法で得られたデータに基づいて、ネコの胸椎と腰椎のねじれやすさを比較した初めての研究です。
出典: 【研究成果】ネコの胸はねじれやすい ~ネコひねり問題を考えるための新しいデータ~ : 山口大学 (配信元: 大学公式ウェブサイト) (https://www.yamaguchi-u.ac.jp/weekly/48407/index.html)
ナギ「反重力装置ではなく、単純に『胸が腰よりねじれやすい』という物理的な特性の話です」
ナギの言葉に、潮目は「そ、そうですよね!」と慌てて咳払いをした。
「ねじれ」が生み出す未来

潮目「つまり、猫は上半身と下半身を別々の方向に、しかもかなり大きくひねることができるってことですか!」
潮目の目が、再び少年のように輝き始めた。
ナギ「そういうことです。角運動量保存の法則に基づき、上半身を右に回せば下半身は左に回る。これを巧みに利用して、落下中に全身の向きを変え、足から着地しているわけです」
潮目「なるほど!胸椎がハンドルで、腰椎がボディみたいなものか!いやはや、素晴らしいデータです。これ、何かに応用できませんかね?」
潮目がぶつぶつと呟きながら考え込む。
潮目「宇宙でも行けそうじゃない、これ?」
ナギの目がキラリと光る。
ナギ「推進剤を使わずに四肢と体幹の動きだけで姿勢を変える……! 潮目さん、これってあのAMBAC!某宇宙世紀のアレの生体版です! 」
潮目「つまりAMBACの元ネタは猫!? そんな馬鹿な、いやしかし。いやいやそれよりも!」
潮目は立ち上がり、部屋をうろうろ歩き始めた。彼の知的なスイッチが入った合図だ。
潮目「例えば、このメカニズムを宇宙服に応用するんですよ!NASAあたりがもうやっちゃってるかもだけど。無重力空間で姿勢を制御する『ニャンバック』!これならガス噴射なしでクルクル回れる!」
ナギ「実証したいけど予算が問題です。先週あなたが壁に激突させた観測ドローンの修理代で、予備費も乏しくなってます」
ナギの的確な指摘が、潮目の肩に突き刺さる。
潮目「う……。で、でも、この『しなやかさ』は重要ですよ!宇宙は難しいにしても、ラボの観測ロボットも、この柔軟な関節構造を取り入れれば、ぬかるみや瓦礫の上でもっと安定して歩けるようになるはずです!」
ナギ「転倒時の衝撃を逃がすダンパーとしても機能するかもしれません。検討の価値はありそうです」
珍しくナギが肯定的な意見を口にしたことで、潮目はさらに気を良くした。
ナギからのワンポイント解説
- ネコ胸椎における解剖学的ねじれ柔軟性(ニュートラルゾーン解析)
ネコの胸椎は腰椎と比較してねじれやすさ(トルクに対する回転可動性)が力学的に有意に高く、「落ちるネコ問題(Falling Cat Problem)」における空中姿勢制御の主要な力学的基盤となっていることを実証した解剖学的データ。
- 角運動量保存の法則に基づく非推進型姿勢制御(ニャンバック構想)
上半身と下半身の相逆的なねじれ運動(差動回転)により、推進剤(ガス噴射等)に依存せず角運動量を保存したまま全身の指向性を転換する運動機構。不整地走破ロボットの関節衝撃吸収ダンパーや無重力下での姿勢制御技術への工学的応用可能性を示す。
- 潮目研究員の動的空間認識および運動協調性の観測メモ
ネコの高度な空中姿勢制御理論に感銘を受けた直後、自卓のコーヒーカップを自らの腕で払いのけ落下・砕片化させる事案が発生。角運動量保存の法則を適用する以前に、静的環境における視覚運動協調(目と手の連動)に致命的な課題が存在することを計測・記録した。
猫にはなれない研究員
潮目「いやあ、猫の身体能力は本当に素晴らしい!我々もこの柔軟な発想と、しなやかな身体を見習わないといけませんね!」
潮目がそう言って、インスピレーションが湧いたとばかりに自分のデスクへ戻ろうとした、その瞬間だった。
ガシャーン!
彼の腕が、机の端に置いてあったコーヒーカップに当たったのだ。宙を舞い、床に叩きつけられて砕け散るマグカップ。茶色い液体が、無残にタイルを汚していく。
潮目は空中でカップを掴もうとしたが、その体は猫のようにしなやかには動かなかった。
潮目「……」
ナギ「……」
長い沈黙の後、ナギが静かに口を開いた。
ナギ「猫の反射神経と柔軟性を見習う前に、まずは自分の空間認識能力を改善した方がよろしいかと」
潮目「こぼさなければどうということはない……」
ナギ「こぼしてるでしょうが。ハイ雑巾」
潮目「……ナギ君、ごめんね……」
情けない声を出す潮目を見て、ナギはため息を一つつき、静かに備品庫へと向かうのだった。
