【脳は痛みをどう抑える?】|青斑核のMOR受容体が痛覚過敏を制御する「痛みのゲート」

痛みは無視できない
ラボのモニターには、とあるベトナム戦争帰りの男のアクション映画が映し出されていた。
銃弾を受け、血を流しながらも、主人公は淡々と呟く。「痛みは無視している」。
潮目「くぅーっ! カッコよすぎる…! これですよ、これ!」
そのセリフに、潮目のテンションは最高潮に達していた。
見終わった彼は、みなぎる興奮を胸に解析業務のデスクへ戻る。一息つこうと、淹れたてのコーヒーに手を伸ばした、その時だった。
ガシャン!
勢い余ってカップをひっくり返し、熱々の液体が手の甲に飛び散る。
潮目「あっちい!」
情けない悲鳴を上げる潮目に、背後から冷静な声がかけられた。
ナギ「潮目さん。いまこそ『痛みは無視する』タイミングです」
潮目「そ、そうだって、いや無理! 熱いものは熱いんだって!」
ナギ「映画鑑賞から得た教訓の実践機会は、意外と早く訪れるものですね」
潮目「実践のハードルが高すぎるよ!」
その時、ラボの自動ドアが静かに開き、凛としたハイヒールの音と共に、空気が凍りついた。
白波「何なの。朝から騒々しいわね」
息を呑む潮目とナギの前に、ラボの最高責任者、白波所長が腕を組んで立っていた。
脳内に隠された「ペイン・ブレーキ」
白波「潮目、あなたが今、情けない声で叫んでいた『痛み』について。面白いデータを見つけたわ」
所長が指先で自身の端末をタップすると、メインモニターに一本の論文が映し出された。
潮目「え…? 脳の、痛み発生源に関する論文…?」
ナギ「ボス。こちらの解説記事も同時に展開します」
Using cell-type- and projection-selective conditional knockout and rescue of LC-MOR receptor signaling, we show that these receptors bidirectionally regulate thermal and mechanical hyperalgesia—providing a functional gate on the LC pain generator.
(細胞タイプおよび投射選択的なLC-MOR受容体シグナル伝達のコンディショナルノックアウトとレスキュー(機能回復)を用いて、我々はこれらの受容体が、LCという痛みの発生源に対する機能的なゲートとなり、熱性および機械性痛覚過敏を双方向的に調節することを示す。)
出典: Mu opioid receptors gate the locus coeruleus pain generator : Current Biology (配信元: Cell Press)
潮目「うわ、専門的で難しい…けど、何だかすごいことが書いてあるのはわかる…!」
ナギ「こちらのほうが分かりやすいかと」
モニターの隣には、ナギが検索したニュース記事が表示されていた。
Researchers found a hidden pain “brake” in the brain that could open a new path toward safer treatments for chronic nerve pain.
(研究者たちは、脳内に隠された痛みの「ブレーキ」を発見した。これは慢性的な神経痛に対するより安全な治療法への新たな道を開く可能性がある。)
出典: Scientists discover a brain “brake” that can shut down chronic pain : WashU Medicine (配信元: ScienceDaily)
潮目「脳に…痛みの『ブレーキ』!? まさか、さっきの映画の主人公は、この機能が超人的に発達していたとか!?」
ナギ「フィクションと現実を混同しないように。ですが、痛みを脳が能動的に抑制するメカニズムの解明は、大きな一歩です」
白波「その通りよ。問題は、この『ゲート』や『ブレーキ』を、私たちはどう観測するか、ということ」
調査を継続するための推奨装備が観測されました。
>> ACCESS_DETAILS沈黙の悲鳴をどう聴くか
所長の言葉に、潮目の目つきが変わった。
潮目「観測…! そうか! このLC-MOR受容体の活動を外部からモニタリングできれば…痛みを我慢している人がわかるんじゃないですか!?」
ナギ「非接触で脳の特定部位の受容体シグナルをリアルタイム計測するのは、現状の技術では極めて困難です。脳波計では空間解像度が足りませんし、fMRIは大掛かりすぎます」
潮目「でも、考えてみてくれナギ君! 特に、高齢者の方々だ。体の不調を『これくらい大丈夫』って我慢して、気づいたときには手遅れになるケースが多いって聞く」
ナギ「確かに、社会的にも問題になっていますね」
潮目「もし、自宅や施設にいるおじいちゃん、おばあちゃんを、非接触のセンサーが見守っていてくれるとしたら? 本人が『平気だよ』って笑顔で言っていても、脳の『痛みブレーキ』がフル稼働しているのをセンサーが検知して、『メディカルアラート:閾値を超過!』みたいに通知してくれるんだ!」
ナギ「発想はヒューマニスティックで、ラボトロニカ的ですね。しかし、やはり脳の直接観測は壁が高い。代替案として、超高感度のミリ波センサーで非接触に心拍、呼吸、体表温の微細なゆらぎを捉え、それを痛みによるストレス反応の代理指標としてAIに学習させるアプローチなら現実味があります」
潮目「それだ! 複数のバイタルサインの相関から『隠された痛み』のパターンを炙り出すんだ! まさにデータと風景のあいだじゃないか!」
二人の議論が白熱するのを、白波所長は静かに見つめていた。
予算は確保したわ
白波「…潮目」
潮目「は、はい!」
白波「あなたの発想、悪くないわ」
潮目「えっ…あ、ありがとうございます!」
白波所長は踵を返し、ラボの出口へと向かう。そして、ドアの前で一度だけ振り返った。
白波「その『沈黙の悲鳴を聴く非接触センサー』の基礎研究、予算は確保してあげたわ」
潮目「へっ!?」
ナギ「…ボス?」
白波「ただし——条件があるわ」
所長はポケットから冷却シートを取り出すと、潮目の火傷した手の甲へ無造作に、けれど正確に貼り付けた。
ひんやりとした感触に潮目が息を呑む。
白波「そのセンサー、どう考えてもノイズを無視できないものになるわよね?」
ナギ「そうですね。微弱な信号を相手にすると、どうしても外部環境の揺らぎが影響してきます」
白波「そう。だからまず、ノイズ排除アルゴリズムが必要になるわ。ちょうど別件で検証中のがあるの。コードを渡すからカスタマイズすればいいわ。一連の仕様書を作りなさい。いいわね?」
潮目「あの、締切はいつ?」
白波「そうね。10月末くらいまでかしらね」
潮目「なんかアバウトですね」
白波「青物の回遊は10月が...、いえなんでもないわ。さ、潮目、コーヒーをこぼして騒いでいる暇もないわよ。…結果を出しなさい」
そう言い残し、彼女はハイヒールの音も涼やかに去っていった。
所長が去った後、
ナギ「ちなみにボスが言っていた『外部環境のノイズ排除アルゴリズム』ですが……先日ボスのデスクで見た最新型魚群探知機の解析エンジンと構造が酷似しています」
潮目にボソッと明かす。
潮目「...青物シーズンに間に合わせろってことですかね...」
